中村惣一郎先生(777双)の証し。
先日は真のお母様にまつわる
証しを紹介しましたが、
今回は、真のお父様と初めて出会われた時の
エピソードとみ言を紹介します。
☆
真のお父様との初めての出会いは、
お父様が第一回世界巡回路程で来日され、
一九六五年二月五日に福岡に聖地を決定されたときでした。
そのとき私は、前年の十一月から二月末まで、一時的に、
北九州の小倉から福岡に移動していたのです。
真のお父様が福岡に来られる直前、
東京に行っていた竹内ママ(長谷川みつゑさん)から電報が届きました。
急いで打電したせいか、句読点が間違っていました。
「暗号みたいだなあ」と言いながら、その電文を読みました。
真のお父様が福岡に来られるというのです。
そのころは、まだ教会には電話もありませんでした。
当時の福岡教会は、吉塚新町という所にあった古びた一軒家で、
韓国の既成教会の牧師さんから献堂していただいたものでした。
しかし、部屋は四畳半と、六畳か八畳ほどの大きさの部屋と
二畳の玄関間の三部屋しかなく、縁側は腐っており、
ふすまもぼろぼろでした。
さらに、しっくいははがれて、粗壁が見えている
という有り様だったのです。
そこで、福岡教会にいた私たちで、
大急ぎで修理することになりました。
といっても、お金がありませんから、自分たちで壁に塗料を塗り、
傷と穴だらけの柱はニスと墨汁を混ぜたもので補修しました。
床の間だけは、友人の左官屋に依頼して直しました。
真のお父様が福岡に到着される前、
竹内ママは水ごりをしていました。
“ママが水をかぶっている。僕らもやろうか”
という軽い気持ちで、
私たちも水行の条件を立ててお父様をお迎えしました。
そのとき、本当にお父様の価値を知ってお迎えしたのは、
竹内ママだけではなかったでしょうか。
☆
当時、九州には福岡、熊本、鹿児島に教会があり、
献身的に活動している人、礼拝に参席する人全員が集まりましたが、
二十人ほどにしかなりませんでした。
そのメンバーが全員集まって、
真のお父様を福岡の教会にお迎えしました。
“力道山みたいだなあ”。それが私の第一印象でした。
お父様のお体は大きく、力強く見えました。
☆
お父様は「行きたい所、会いたい人、住みたい所」
というみ言を語ってくださいました。
そのとき、お父様はたった二間の小さな家で、
二十人ほどのメンバーを前にされながら、
しかし何百人の人たちに対して語られるように、
「行けーっ!
行かなければっ、ならない!」とか、
「宇宙に出るとき、大気圏を脱出するだろう?
ロケットが地球の引力圏を突破して
宇宙に飛び出すように、
堕落圏を突破して
突き抜けて行かなければならないんだ!」
と激しくお話しされました。
☆
また、
「メシヤは兄さんのような人だよ。
どのように生き、どのように生活すべきかを
一つ一つ教えてくれる兄さんのような人が必要だ。
それがクリスチャンの中にいないから、
再臨主が兄さんのようになって来るんだよ、
兄さんの立場を執りながら、同時にお父さんなんだよ。
そのような人が会いたい人であり、メシヤなんだよ。
行きたい所は、本来の故郷という意味で“本郷”である。
住みたい所もそこなんだ。
そして、幸せな人は、自分の父母とともに、
自分の家門とともに、自分の生まれた
もともとの故郷において暮らす人が幸福な人である。
だから、ここに帰らなければいけない」
と、じゅんじゅんと説いてくださいました。
☆
さらに、
「いろいろな人が真理を求め、行く道を探している。
そしてみ言に出会ったとき、
『そうか、この道だ』とうなずきながらも、
いざ行くというとき、その道を行こうとしない。
これが、神の絶えざる悲哀と、
天的怒りの頂点なのかもしれない」
と語られたことが、とても心に残っています。
☆
そして最後にお父様は、当時の地区長であった竹内ママに、
「日本に来て、一番大切な話をしたかもしれない」
「先生は、福岡が日本の本部になることを
願っているかもしれないよ」
と語られました。
竹内ママの、声を上げて喜んだ顔が今でも思い出されます。
☆
この日、私たちは真のお父様の宿泊のためにホテルを用意していました。
ところがお父様は、その夜は「教会に泊まる」と言われたのです。
そこで、大急ぎで貸し布団を借りてきました。
真のお父様のほかに西川先生、崔元福先生、
久保木先生、石井夫人が広いほうの部屋に休まれ、
隣の四畳半の部屋と押し入れには、
その日福岡にやってきた九州のメンバーたちが休みました。
そして私と都敬志さん(七七七双)は、玄関の二畳に、
上に布団をかけて服を着たまま休みました。
部屋の方を見ると、すき間からは
お父様のお姿が目に入りました。
そのとき、お父様がさっと
お休みになられたような気がしました。
私は“メシヤは、二十四時間神様と一緒だから、
お祈りしなくてもいいのか”
などと思ったのですが、その晩、私は初めてお父様の夢を見ました。
その夢の中でお父様は、一晩じゅう
ずっと座ったままお祈りをしておられました。
それで私は、お父様というおかたは、
休まれたとしても、
決して私たちのようには休んではおられないのだ、
ということが分かったのです。
☆
このときの実体の真のお父様との最初の出会いは、
お父様の力強さが印象に残っています。
あのころ真のお父様は、神様のみ旨のために立ち上がった
一人一人の勇士たちに直接、
激しい波動でみ言を語ってくださいました。
そして直接に指導してくださったのです。
☆
中村先生の証しを読みながら、
「このころの若いお父様にお会いしたいな・・・」
そんな思いが湧いてきます。
福岡で魂を込めて語られたお父様は、
「日本に来て、一番大切な話をしたかもしれない」
そのような感想を述べておられます。
きっと、相対圏があったから、つまり
竹内ママと兄弟たちの、お迎えするための
精誠条件とまごころを
真のお父様が感じられたので
そのように語られたのでしょう。
また、先日紹介した梶栗会長の証しで、
当時大先生と呼び、そのような概念がない中で、
お父様のことを
「再臨主です」と答えたところ、
ずっと考えこまれるようにしていたとのことでした。
それが東京での出来事ですから、
その後、お父様が熟考される中で、
6番目の巡回地、福岡でのみ言につながったのかもしれません。
基台が立ったということか、
時と条件が満ちたということでしょうか。
みすぼらしい、何もない環境の中であっても
何百人、何千人に語られるように熱く
ひたすらに食口を愛し、み言を語ってくださったお父様。
今は、私たちがお父様の如くになる時です。
お父様の若きころの姿を思いながら、
歩んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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