アメリカ統一教会(現・家庭連合)草創期から
歩んで来られた澤田先生の「アメリカ初期開拓史」。
真の父母様とともに、
日本人宣教師たちが入国し、
開拓伝道をされました。(1973〜76…)
今回は、1974年のマジソン大会に向けて、
活動しておられた貴重な証しを紹介します。
☆
皆様はアメリカ摂理に占めるマディソン大会、ヤンキー大会、
そしてワシントン大会の歴史的意義をご存知だと思います。
ご父母様がアメリカで大きな復帰運動を起こしていかれた
46年前のこの時期を、キリスト教歴史学者は
アメリカ第四次大覚醒時代と呼んでいます。
イエス様がイスラエルに現れる前に、
神様は様々な預言者を送ってメシア降臨の為に
イスラエル民族を準備されましたように、
ご父母様をアメリカに送る前にも同様の準備をされました。
2000年の長いキリスト教史で数える程しかいない
史上に光を残した聖人の中で、
割合として驚く程多くの聖人(霊界からのメッセージを地上に送る資格を与えられた方々)が
アメリカ第一次大覚醒時代から第三次覚醒時代に現れて
心霊復興を行い、再臨主を迎える霊的基盤を造ったのです。
そして1960年代初期から御父母様を迎える為に
世相を変えるほどの第四次大覚醒が起こっていました。
大覚醒が起こるということは逆の観点から見ますと、
それだけ社会が乱れ、人心が神様から離れていたと言うことです。
でなければ、大覚醒が起こる必要がありません。
まさに終末現象を起こしていた大覚醒時代の真っ只中に
御父母様と私たち日本人宣教師は渡米しました。
当時を振り返って見ましても、2020年の今とは全く違う
霊的雰囲気にアメリカは包まれていたと思います。
☆
では、この大覚醒時代に御父母様は
マディソン大会に向けてどのような歩みをされたのでしょうか。
真のご父母様がアメリカの摂理をお進めになるにあたって
一番の悩みはアメリカ人食口が少ないことでした。
この問題を解決するには伝道しかありません。
カーネギーホール講演会の後、お父様は
7つの教会をニューヨークに造られました。
私たちは七つの教会に分かれて経済活動などをしていましたが、
伝道は各自の地域ばかりでなく、時にニューヨークの
中心であるマンハッタンで行うこともありました。
伝道はマンハッタンの至るところで行ったのですが、
一番よく伝道したのが、五番街に面し、
41番通りにある市立図書館前でした。
ここで良い人を見つけた時には、
常時図書館前に停めてあったバンに乗せて
マンハッタン教会へ連れて行きました。
☆
この目抜き通りの五番街は、1971年に
お父様が涙を流して嘆かれた所です。
皆様もお父様の嘆きをお読みになられたことがあると思います。
アメリカに最初に来た時、私はニューヨークに行き、
ラッシュアワーの時の五番街に立ってみました。
すると、突然涙が溢れて仕方がありませんでした。
私はエンパイアーステートビルディングや
世界で一番高い世界貿易センタービルを見上げて見ました。
私は、これらのビルの中に神様がいらっしゃるのか
自問自答してみたのです。
ニューヨークはますます神様がいない街となっていきます。
犯罪の街です。
そんなに美しい街は今やズタズタになっています。
この街にはもはや不道徳や神不在の印を認めるばかりです。
☆
ニューヨーク市の緯度は青森の弘前市と同じですので、
私達が伝道を始めた1973年11月上旬には北風が吹き、
下旬から雪が降り始めました。
マンハッタンには高層ビルが建ち並んでいますので、
この高層ビルは人口の谷間を造り、
冷たい強風が私たちの身体に容赦なく吹き付け、
時には真っ直ぐ立っていることができない程でした。
幾ら強い木枯らしが吹こうと、雪が降ろうと、
いたる所に神不在の印のあるこの街にも
必ず義人はいるはずだと、寒さに鼻水を垂らし、
目から涙を流しながら、雪が固まって凍りついた路上で
地を這(は)う様な思いで路傍伝道を続けました。
☆
冬のニューヨークでの路傍伝道は寒さに耐えるだけでも大変でしたが、
それ以上に堪(こた)えたのが、人々の冷たい反応でした。
日本では当然ですが言葉が通じます。
私は手八丁口八丁の人間ではありませんが、
ある程度人が話を聞いてくれる話力があると自負していました。
しかし、アメリカでは言葉が通じないのです。
母の国がイギリスでなく日本であるのを、
真の父母様に申し訳なく思いました。
韓国の既成教会がお父様に反対していなければ、
イギリスが母の国になっていたのです。
アメリカ人はイギリス人に親近感を持っていますから、
伝道もし易かったでしょうし、
言葉上何の問題もありませんでした。
☆
私たち日本人宣教師は、人種も民族も違う人たちに
どの様に信頼してもらったら良いのでしょうか。
ニューヨークには独自の文化、伝統、習慣、教育の
背景を持った多民族が集まっています。
この様に多種多様の人々が集まる街で
見知らぬ人を信頼することは
誰にとっても容易ではありません。
何の社会的基盤もない少数民族の東洋人宣教師を
アメリカ人が信じるのは大変だったでしょうし、
信じさせる私たちも大変でした。
アメリカ人は日本のことを余り知りませんし、
日本での学歴や経歴などは永遠の生命を左右する
伝道にはほとんど役に立ちません。
彼らを復帰するには英語が話せ、
霊界を動員しなければ
どうしょうも無いということを日々痛感しました。
☆
お父様は、私達日本人宣教師のアメリカでの使命は
1973年から1976年までの3年間だと仰っていました。
この期間にアメリカ人を伝道し
真の父母様が人類のメシアであることを証することを
日本人宣教師に願われていました。
3年後にアメリカを去る時、この国に心情基盤
そして実体基盤として残るのは霊の子女しかありません。
幾ら私達が母の国を代表しているとしても、
霊の子を復帰せずにこの国を去れば、
何の心情基盤も残らず、
時と共に日本人宣教師の存在も歩みも忘れられるでしょう。
それ故、私たち日本人宣教師にとりましても、
一人一人が霊の子三人を復帰するのが究極の使命でした。
アメリカ初期開拓史
1974年9月18日のマディソン大会に向けて@
1974年9月18日のマディソン大会に向けて@
☆
アメリカは、1959年に金永雲先生が
宣教を開始していましたが、
お父様が、アメリカ人食口がいないことを
悩まれていたとのこと。
そんな中、いよいよアメリカに
投入するというときに、
それなりの基盤を作ってきた
日本から宣教師を連れて行かれました。
ある意味、日本人を選んだというか、
それしか手がなかったというか。。。
その後、世界中のどの拠点に行っても
日本人宣教師の姿が見られるようになりました。
キリスト教国家とも言うべきアメリカで、
キリスト教の背景などほとんどない、日本人たちが
宣教活動をする、という状況。
言語、文化の壁を超えて
開拓していかれた先輩たちには、
頭が下がる思いです。
お父様は、日本を母の国に立てるため、
あえて、日本宣教師を派遣されながら、
苦労の道を歩ませたのかもしれません。
その後の開拓史もお楽しみに。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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