2020年12月03日

(証し)ワシントン大会までに! どうして米開拓に日本人宣教師が送られたのか



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アメリカ統一教会(現・家庭連合)草創期から
歩んで来られた澤田先生の「アメリカ初期開拓史」。

真の父母様とともに、
日本人宣教師たちが入国し、
開拓伝道をされました。(1973〜76…)

今回は、1974年のマジソン大会に向けて、
活動しておられた貴重な証しを紹介します。


皆様はアメリカ摂理に占めるマディソン大会、ヤンキー大会、
そしてワシントン大会の歴史的意義をご存知だと思います。

ご父母様がアメリカで大きな復帰運動を起こしていかれた
46年前のこの時期を、キリスト教歴史学者は
アメリカ第四次大覚醒時代と呼んでいます。  

イエス様がイスラエルに現れる前に、
神様は様々な預言者を送ってメシア降臨の為に
イスラエル民族を準備されましたように、
ご父母様をアメリカに送る前にも同様の準備をされました。 

2000年の長いキリスト教史で数える程しかいない
史上に光を残した聖人の中で、
割合として驚く程多くの聖人(霊界からのメッセージを地上に送る資格を与えられた方々)
アメリカ第一次大覚醒時代から第三次覚醒時代に現れて
心霊復興を行い、再臨主を迎える霊的基盤を造ったのです。

そして1960年代初期から御父母様を迎える為に
世相を変えるほどの第四次大覚醒が起こっていました。

大覚醒が起こるということは逆の観点から見ますと、
それだけ社会が乱れ、人心が神様から離れていたと言うことです。
でなければ、大覚醒が起こる必要がありません。

まさに終末現象を起こしていた大覚醒時代の真っ只中に
御父母様と私たち日本人宣教師は渡米しました。

当時を振り返って見ましても、2020年の今とは全く違う
霊的雰囲気にアメリカは包まれていたと思います。


では、この大覚醒時代に御父母様は
マディソン大会に向けてどのような歩みをされたのでしょうか。

真のご父母様がアメリカの摂理をお進めになるにあたって
一番の悩みはアメリカ人食口が少ないことでした。
この問題を解決するには伝道しかありません。

カーネギーホール講演会の後、お父様は
7つの教会をニューヨークに造られました。

私たちは七つの教会に分かれて経済活動などをしていましたが、
伝道は各自の地域ばかりでなく、時にニューヨークの
中心であるマンハッタンで行うこともありました。 

伝道はマンハッタンの至るところで行ったのですが、
一番よく伝道したのが、五番街に面し、
41番通りにある市立図書館前でした。

ここで良い人を見つけた時には、
常時図書館前に停めてあったバンに乗せて
マンハッタン教会へ連れて行きました。
                

この目抜き通りの五番街は、1971年に
お父様が涙を流して嘆かれた所です。
皆様もお父様の嘆きをお読みになられたことがあると思います。

アメリカに最初に来た時、私はニューヨークに行き、
ラッシュアワーの時の五番街に立ってみました。
すると、突然涙が溢れて仕方がありませんでした。

私はエンパイアーステートビルディングや
世界で一番高い世界貿易センタービルを見上げて見ました。

私は、これらのビルの中に神様がいらっしゃるのか
自問自答してみたのです。

ニューヨークはますます神様がいない街となっていきます。
犯罪の街です。
そんなに美しい街は今やズタズタになっています。
この街にはもはや不道徳や神不在の印を認めるばかりです。


ニューヨーク市の緯度は青森の弘前市と同じですので、
私達が伝道を始めた1973年11月上旬には北風が吹き、
下旬から雪が降り始めました。

マンハッタンには高層ビルが建ち並んでいますので、
この高層ビルは人口の谷間を造り、
冷たい強風が私たちの身体に容赦なく吹き付け、
時には真っ直ぐ立っていることができない程でした。 

幾ら強い木枯らしが吹こうと、雪が降ろうと、
いたる所に神不在の印のあるこの街にも
必ず義人はいるはずだと、寒さに鼻水を垂らし、
目から涙を流しながら、雪が固まって凍りついた路上で
地を這(は)う様な思いで路傍伝道を続けました。


冬のニューヨークでの路傍伝道は寒さに耐えるだけでも大変でしたが、
それ以上に堪(こた)えたのが、人々の冷たい反応でした。

日本では当然ですが言葉が通じます。
私は手八丁口八丁の人間ではありませんが、
ある程度人が話を聞いてくれる話力があると自負していました。

しかし、アメリカでは言葉が通じないのです。
母の国がイギリスでなく日本であるのを、
真の父母様に申し訳なく思いました。

韓国の既成教会がお父様に反対していなければ、
イギリスが母の国になっていたのです。
アメリカ人はイギリス人に親近感を持っていますから、
伝道もし易かったでしょうし、
言葉上何の問題もありませんでした。


私たち日本人宣教師は、人種も民族も違う人たちに
どの様に信頼してもらったら良いのでしょうか。

ニューヨークには独自の文化、伝統、習慣、教育の
背景を持った多民族が集まっています。

この様に多種多様の人々が集まる街で
見知らぬ人を信頼することは
誰にとっても容易ではありません。

何の社会的基盤もない少数民族の東洋人宣教師を
アメリカ人が信じるのは大変だったでしょうし、
信じさせる私たちも大変でした。

アメリカ人は日本のことを余り知りませんし、
日本での学歴や経歴などは永遠の生命を左右する
伝道にはほとんど役に立ちません。

彼らを復帰するには英語が話せ、
霊界を動員しなければ
どうしょうも無いということを日々痛感しました。  


お父様は、私達日本人宣教師のアメリカでの使命は
1973年から1976年までの3年間だと仰っていました。

この期間にアメリカ人を伝道し
真の父母様が人類のメシアであることを証することを
日本人宣教師に願われていました。

3年後にアメリカを去る時、この国に心情基盤
そして実体基盤として残るのは霊の子女しかありません。

幾ら私達が母の国を代表しているとしても、
霊の子を復帰せずにこの国を去れば、
何の心情基盤も残らず、
時と共に日本人宣教師の存在も歩みも忘れられるでしょう。

それ故、私たち日本人宣教師にとりましても、
一人一人が霊の子三人を復帰するのが究極の使命でした。

アメリカ初期開拓史 
1974年9月18日のマディソン大会に向けて@


アメリカは、1959年に金永雲先生が
宣教を開始していましたが、
お父様が、アメリカ人食口がいないことを
悩まれていたとのこと。

そんな中、いよいよアメリカに
投入するというときに、
それなりの基盤を作ってきた
日本から宣教師を連れて行かれました。

ある意味、日本人を選んだというか、
それしか手がなかったというか。。。
その後、世界中のどの拠点に行っても
日本人宣教師の姿が見られるようになりました。

キリスト教国家とも言うべきアメリカで、
キリスト教の背景などほとんどない、日本人たちが
宣教活動をする、という状況。

言語、文化の壁を超えて
開拓していかれた先輩たちには、
頭が下がる思いです。

お父様は、日本を母の国に立てるため、
あえて、日本宣教師を派遣されながら、
苦労の道を歩ませたのかもしれません。

その後の開拓史もお楽しみに。




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