浅川先生の真のお母様自叙伝講話
今回は、「野の花のように美しく、松のように強い心を持つ」です。
☆
人生は、思いどおりにはいかないものです。
自動車の運転は、カーナビをセットすれば
目的地に到達できますが、
人生は目的が不明瞭であり、
数多くの困難が道を遮っていくものです。
信じた天にだまされ、愛した人から裏切られる。
夫婦でも、言葉で傷つけ、傷つけられる。
病気、事故、経済的問題、自然災害、
最近ならコロナ災禍などが襲い掛かることもあります。
純粋に夢と希望を抱いて出発した人生が、
日々の生活の中で、不信と不満と猜疑心に苛まされ、
心が傷つき、汚れが付き、なえてくるのです。
会社や親族、町内の人間関係の煩雑さで、
天からどう思われ、どう評価されるかを
気にするようになり、自分らしさを見失い、
心の美しさと強さを失っていきます。
そのため、ひどく臆病な人生を歩むようになることがあります。
☆
では、どうしたら、心が汚れず、美しさを保って、
何事にも動じない強さを持って生きることができるのでしょうか。
そんなときは、道端で健気に咲いている
野の花を見ればいいのです。
花にも、人間の手を介して咲く花と、
人の世話を受けずに、自然のままで咲く花があります。
花壇で咲く花、花屋に陳列される花、温室で手厚く育てられる花は、
大が丹精を込めて育てるので、日照りで枯れたり、
なえたりする心配はありません。
もし彼らに、「あなたが一番信頼する方は誰ですか」
と問えば、きっとこう答えるはずです。
「私を育ててくださるご主人さまです」
野の花に、同じ質問をしたら、こう答えるでしょう。
「私か信頼する方は、天の父母様、神様です。
神様は、いつでも、私を愛してくださいます。
暑いときには風を吹かせて揺らしてくださり、
渇きを感じるときには雨を降らせてくださいます。
私は、ひたむきに天の父母様を信じ、すべてゆだねています。
疑ったことは一度もありません」
☆
人生は、神様なしに人だけを見つめていると、
一喜一憂し、心配で、疲れるだけです。
しかし、天の父母なる神様を信じてゆだねていけば、
必ず道は開かれるのです。
純粋に、神様の愛を信じて疑わず、誠を尽くす。
神様の道をひたむきに歩んでいく強さがあれば、
すべての困難と障壁は消滅するのです。
神様は、信じて求める人を決して失望させないからです。
世界平和の実現という最も困難な道を歩まれた、
文鮮明先生と韓鶴子夫人は、すべてを
神様にゆだねて精誠の道を歩まれました。
お二人は、野の花よりも美しい心と、
松よりも強い心を持たれていました。
人類の涙をぬぐう「平和の母」、韓鶴子夫人は言われます。
「私は世の中のすべての人が
野の花のように美しく、
松のように強い心を持ち、
この芝生のように清く生きていけるように、
一人、祈りを捧げるのです」
(『人類の涙をぬぐう平和の母』31ぺージ)
自叙伝書写小冊子より
「野の花のように美しく、松のように強い心を持つ」
「野の花のように美しく、松のように強い心を持つ」
☆
自然を通じて、私の人生に語りかける
様々な教訓があります。
真のお父様も自然から、
神様の声を聞きましたように、
お母様も野の花を通して、
松を通して、神様の声を聞きました。
お母様ご自身が、野の花のように美しい心、
松のように強い心を持たれているので、
そのようなみ言を語られたのだ、と思います。
毎日の業務で忙しく、
このブログもようやく作っているような、
そんな状況ではありますが、
こういう時ほど、自然を見つめ、
神様のメッセージを受け止める、
心の余裕を持っていきたいと思わされます。。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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