2020年12月21日

思っても、これがなかなかできない / こういう祈りが聞かれる?! 《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生の「信仰と生活」より、
『犯罪行為の転嫁』です。


今まで堕落した人間は、
悪いのは、「あの人がやった」、
いいのは、「私がやった」と、
人に褒められそうなものは、
「自分がそこにいたからそうなった」と思うし、
どうも困ることが起こった場合には、
「私は知らないのだがなあ」と自分を正当化するのです。

それは堕落の心ですが、
本当の、本然の心はそうではないのです。


イエス様がこういう時に、
「世の罪は私が負うから」とおっしゃったのは、
全然私たちと反対です。

私たちは、この世が滅びなければならないとか、
私は聖なる者だが、この世はどうも汚いとか、
この世に対して不平を言ったり、
この世を裁いたりするのですが、
イエス様は、裁くのではなく、責任を負われたのです。

だから、自分が責任をとり、
良いものは人に誉れを返すのが信仰者の立場なのです。

これが、なかなかできないのです。
難しいのです。

理論的には、「それもそうだ」と思うけれども、
実際ぶつかってみれば、
すぐ、自分も知らないうちに
自分を隠してしまう時が多いのです。


しかし、そこをはっきり自覚した時、
泣きながら祈ったなら、
天から協助してくださるのです。

祈りは、自分が堕落性に捕まって失敗した時に、
「神様、こういう時にこうなりました」と
実情を報告すれば、神様が天から
その面を補助して、協助してくださるのです。

だから、祈りというのは、
具体的に祈らないと、その返事が来ないのです。

伝道するのも、一回ぶつかってみて、
その人のために祈りながら日本を祈るとか、
迫害を受けながら、蔑視されながら、
その人を思って祈りながら、人類のために祈るのです。

だから、実体の条件がない祈りは、
全然聞かれないのです。

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


『迫害する者のために祈れ』
イエス様も語られ、実践していかれました。

また、真のお父様も
同じ歩みをしていかれました。

私たちは、堕落性が強いので、
あえて否定的な環境を与えられ、
感謝して乗り越えることを通して、
イエス様や真の父母様が
通過された道を歩むのだ、と思います。

ただ、最近は、伝道においても、
直接的な迫害は少なくなりました。
内的な迫害、と表現したらいいのでしょうか。
無視、無関心な方が増えていると思います。

いずれにしても
負の思いにとらわれる時、
真の父母様の勝利圏に近づくために
祈りをもって、乗り越えていきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:28 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする