先回紹介した、1番目のワーク
「本然の自分を感じる」ワークの解説です。
☆
【WORKの解説】
お父様もお母様も、
「許し、愛し、一つになりなさい、感謝しなさい」
とずっとご指導してくださいました。
これは私たちのあるべき姿を教えてくださっているのです。
「本然の自分亅が行くのは、そういう道です。
そのみ言を、ただ読んだり聞いたりするだけでは
流れていってしまいます。
心で感じて実践すれば、言を体恤することができます。
そこで、皆さんにはイメージして、
まず心で感じてみてほしいのです。
次の内容に沿って想像して、感じてみてください。
☆
許し、愛し、一つになる、感謝する
すべてを許している自分って、どんな感じがするだろうか?
「許せない」という思いに囚われた自分の意識が
どんどん薄くなって、すべてを受け入れている自分って、
どんな感じがするだろうか?
すべての人、すべてのことを許して、
受け入れている自分って、どんな感じがするだろうか?
想像することで、大海原のような平安を感じたなら、
それを生活の中で実践しなければなりません。
☆
そうした上で原罪を清算し、本然の血統に連結してこそ
「正午定着」(心と体の統一)、
心に影がない状態へと至っていくのです。
「正午定着」した人間になり、
人に対して、むやみに批判したり、
理由もなく良し悪しを判断したりせず、
ありのままの姿を受け入れ、すべてを許す、
罪の痕跡のない世界に至らなければなりません。
☆
では、愛するということを感じてみてください。
出会う人、一人一人に対して、喜んでもらいたい
という気持ちで、喜ぶようなことを言ってあげて、
その人が喜んで、感謝してくれている。
多くの人に喜んでもらって、感謝されている。
そんな自分を感じてみてください。
どんな感じがしますか。
平安な心の土台の上に、ワクワクするような心情が、
自分の心の中から、湧いてきていませんか。
あなたの得意なことで、
人の心に花を咲かせていくことができたら、
そして多くの人が喜んでくれて、感謝してくれたら、
ワクワクするような気持ちを感じませんか。
これが、平安な心の土台の上に出てくる本性です。
☆
*「本然の自分を感じる」ワーク実践の証し*
皆、喜びを共有したいだけだと分かった!
〔40代/男性/Kさんの実践報告〕
公務の中で、突然かつ緊急で、慣れない映像編集の仕事を依頼されました。
日常業務でもいっぱいいっぱいの中、
映像編集も質の高いものを求められました。
通常業務も滞りがちになり、
「なぜ自分だけがこんなに忙しいのか!」
「このままではすべてが崩壊してしまう!」
という恐れが湧いてきました。
そのとき「思いどおりでなくても大丈夫」と唱えていくと、
「本然の自分を感じる」ワークを思い出しました。
この現状のままでも、
「すべてを受け入れて許している自分。
大海原をイメージしつつ、この業務を通して
皆が喜んでくれている姿」を
イメージしてみました。
この映像の編集を通して、「多くの食囗の復興があるな、
そうなったらありがたいな」と感じ取っていくと
平安に導かれ、業務に集中でき、
良いものを作り上げることができました。
自分を中心とする思いは、
「失敗したら何と言われるのだろうか」と
不安を作り出し続けますが、
本当は誰も私を責めていないのだ、
皆が喜びを共有したいだけなのだと理解できました。
本当は「今ここ」に天国があることを実感できました。
(一部割愛しています
文責:ten1ko2)
「信仰生活補助教材 自己牧会プログラム
『囚われの自分』からの解放を目指して」
第1章 心のしくみ
1.自己主管
WORK1「本然の自分を感じる」ワーク
文責:ten1ko2)
「信仰生活補助教材 自己牧会プログラム
『囚われの自分』からの解放を目指して」
第1章 心のしくみ
1.自己主管
WORK1「本然の自分を感じる」ワーク
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今回は、四つのテーマの中で、
「許す」と「愛する」というところを紹介しました。
以前、家庭教育部長をされていた多田先生が
「思いの列車」という話をしていたことを思い出しました。
マイナス的な「思い」に囚われている時、
その「思いの列車」を降りなければならない、
ということです。
ワークをすることは、
このことと同じだ、と感じました。
証しにもあるように、
負の思いになった時、
ワークを自分を客観視することで、
心情が転換されて、導かれていくのだ。。
そのように思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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