2020年12月29日

お父様は、個人に命令されない?! 私が悟ったことと、誓ったこと 《李相憲先生》



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私の目に映った先生の姿は、
この世の人間の姿ではなかった。
神様が人の形となり
人間を救うため生まれた
メシヤだった



今日は、36家庭の大先輩であり、
『統一思想』と『勝共理論』を執筆された
李相憲(イ サンホン)先生の証しです。


私は儒教の家庭に生まれ、
1956年に43歳で入教しました。

その当時の新聞を見ると
統一教会の評判は良い方ではありませんでした。
評判が悪い時に私は統一教会に入ってきたのです。

私は新聞を見る時、噂が問題ではなく、
教え自体が真理か否かということが問題だという考えでした。

私を導いた人に引かれ、統一教会本部に案内され、
劉孝元(ユウ ヒョウウォン)協会長から原理を聞くようになりました。

私は学生の頃、共産主義運動に加わったことがあって
共産主義の唯物史観を知っていたため、
復帰原理を聞いたとき、これが統一原理の歴史観であることを悟り、
入会を決心したのです。


私は統一教会に入教してから普段抱いていた
色んな疑問の骨格は解決していきましたが、
依然として細かい問題は原理だけでは
すっきりと解決されないままでした。

そこで先生に直接お会いし質問をしました。

先生は部屋に数名いる時は
全体に向かってみ言を語られましたが、
その内容は私の質問に対する
回答の内容である時が度々ありました。

思想的なみ言だったので一般の食口は
その意味を分かってはいませんでしたが、
私はきちんと理解できていました。

私が質問すれば、その質問に関して
ある時は単独で細かく説明して下さったりもしました。


私が感激したことは、人生の難問題を
完璧に明快に解決して下さっただけでなく、
民族と人類に対し、また歴史上の多くの聖賢と義人と預言者に対し、
限りない憐憫の愛を抱いておられるということでした。

私の目に映った先生の姿は、
この世の人間の姿ではありませんでした。

この方は無限の知恵の宝庫を持っておられ、
無限の憐憫の愛を抱いておられる聖者であり、
神様が人の形となり人間を救うため生まれた
メシヤだったということです。


私は心の奥深くで、とあることを誓ったことがあります。

それはこの方の思想を体系化させ、世界に広めようというものです。
まずこの方を全人類の前で
メシヤとして証しすることでした。

その理由として、私のように悩んでいた人間が、
この世界にいくらでもいるはずなので、
そのような人々を早く救ってあげなければならないと考えました。


統一教会の草創期に感じた様々な事柄がありましたが、
そのうちの一つは、先生は絶対に個人に対し
命令はされないということです。

これは非常に印象的でした。

金誰々、李誰々に命令したいことがあれば
集会や礼拝の時に皆に向かって
「統一食口はこのようにしなければならない」
と一括して語られました。

なぜそうされたのかと言えば、直接命じられることは
直接主管を意味するからです。

実際、直接命令したとしても
その人がその命令通りに動けばよいのですが、
もしそう動かなければ、それが条件として引っかかるからです。

すなわち天の命令に従わなかったという条件が立てられ、
一生消えないという意味です。

未来において悔い改めて良くなったとしても、
その霊的履歴書には天の命令に服従しなかったという
汚点を残すようになるのです。

したがって、本人のためにも
直接命令をされないということを悟りました。


直接命じたいときにどうされるかと言えば、
象徴的な表現を使われたのです。

その一例を取り上げてみましょう。

ある大学教授が入教し、自分の素晴らしさを
表したくて偉ぶっていました。

ある日の夜、先生はガラスのコップを小麦粉で一杯にし、
その上から水を注がれました。
当然水は全部溢れて流れました。

全員「何故先生はあのような事をされるのだろうか?」
と変に思っていたのです。

器というのは、その中に何かが入っていれば、
他のものはそこに入りません。

同じように真理を受け入れたいのならば、
心を全て空っぽにしなければなりません。
心を空にしないで、知識をそのまま備えているだけでは、
いくら偉大な天の真理だとしても入ってはいかないのです。

このことを直接み言で語られる時
そのまま聞き入れれば良いのですが、
聞き入れられないのならば条件に引っかかるため、
象徴的に、比喩的に、そのように
ガラスのコップを小麦粉で満たし、
その上から水を注ぐ方法で
悟る者だけが分かるようにされたのです。


また仮説的、未来的な表現も良く使われました。
もし誰々がこのようにすればこのようになるという表現法、
英語でいえば「If」に当たります。

例えば金という者がいて、先生がその者に命じる時、
「もし金誰々が伝道に出るとすれば
立派な伝道をしてくるだろう」
と語られるのです。

それは命令ではありませんでした。

後に私はその人に会ったとき、
先生がどうしてそのような表現をされたのか
分からないと言うと、彼曰く、
それは「伝道せよ」という命令なのだということでした。

その時私も悟ったのです。

このように象徴的、可能的、未来的に語られることで、
「今後このようになるからこれに対し準備せよ!」
という意味を伝えておられたのです。

私が何故このような例を語るのかと言えば、
統一思想に関しても、
このような未来的表現で命令されていたことを、
私も最初はわからなかったということを明かすためです。

文責:ten1ko2


私たちは直接お父様に接したことはありませんので、
とても貴重な証しであると思います。

李相憲先生の思想的な深い質問を
お父様が全体のみ言の中で
語っていかれる、そのやり取りを想像したとき、
李相憲先生も感銘を受けたでしょうが、
対するお父様がどれほど感激しながら
み言を語っておられたことでしょうか。

そのようにして、李相憲先生を
訓練していかれたのだと思います。

また、真のお父様が人を立てるためには
おそらく初期の頃は、命令するというのではなく
その人自身が自発的に決意した条件を立たせるため、
悟らせることが多かったのだと感じさせていただきました。

それが、人を愛していくこと
導いていくことの基本のありかたなのかと思います。

子どもにも、命令しても心は動かず、絶対にやりませんから。
とても根気がいりますが、お父様はすべてに
責任をもってくださりながら、
私たちを、育てつつ、摂理を進めて来られたのだと思います。

統一原理はお父様が原理原本を土台として
解明されたものでありますが、
原理講論は劉孝元先生が書かれました。

また、李相憲先生がまとめられた勝共理論、
統一思想もお父様のみ言を中心としたものです。

しかし、お父様ご自身でなく、
弟子が書いた条件を立てさせないといけなかったのだと思います。

皆様も聞いたことがあると思いますが、
原理講論には、間違っている部分がいくつかある、と言います。
しかし、お父様は「それでいいんだ」と語られました。

100%完璧なみ言であったら、
原理講論を否定し、批判した人は、
審判を受ける、といいます。

また、弟子が書いたものですから、
不信しても蕩減を受けることはないのです。

独り息子として来られた、
真のお父様の深い配慮があることを、
心から感謝していきたいと思うのです。。。




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