李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「主管性転倒」です。
☆
ヨハネ福音書第五章五、六節に、
「さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また、
長い間わずらっていたのを知って、その人に、
『なおりたいのか』と言われた」という部分があります。
「治りたいのか」とイエス様が聞いたのは、
それによって彼が怒るかどうかを確かめてみたのです。
池の水が動けば自分も入りたいのだけれども、
もう三十八年もの間、病身で自分が入りかけようとすると、
他の人が先に降りていくというのです。
彼は全財産を費やして、しかも三十八年もかかって、
治りたい一心で池のそばに来たのに、イエス様は
「お前も病気が治りたいのか」と言って、とても蔑視したのです。
この、医者でも祭司長でもない、外面的には乞食みたいな青年が来て、
「お前も治りたいのか」と言った時、病人にとっては
どれほどの怒りが、血気が起こると思いますか。
だれだって死んでもその生意気な言葉に対し、
反抗しないではいられないはずです。
しかし、その病人は、「はい、そうです。
水が動く時、助けてくれる人がいないのです」と言って、
イエス様が投げかけた言葉に対して耐え忍んだのです。
そうした時に、イエス様は、
「起きてあなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」
と言われ、その病人は癒されたとあるのです。
☆
これはどういうことでしょう。
堕落した人間は、自分以下の人の頼みや命令を、
不快に思う本能があるのです。
この血気のため、今までサタンに捕まってきたのです。
イエス様はこの人を蔑視して、それを試してみたのです。
私たちは、上の人に蔑視されたとか、圧迫された時は、
まだ我慢できても、自分より下の、あるいは
自分より惨めな人に無視される時は、相当不快な気持ちになるのです。
しかし、たとえ子供に命令を受けても、
主の命令と思わなくてはならないのが、信仰者の態度なのです。
そこにどんな秘密があるか分からないからです。
いつでも重要で重大な問題は、
信じられるところから来るのではなく、
だれも信じられないようなところから現れるのです。
だから、昔から、神が立てた代表者は、
信じられそうな人を使ったことがないのです。
神は反対に摂理して、だれもが信じようとしても、
到底信じられない、そういう者を立てて使うのです。
イエス様にしても、馬小屋に生まれ、
しかもナザレという、当時の一番無知識な村で育ったというのです。
☆
だから今日においても、世界の摂理が
韓国という国を背景にして始まったというのは、
人々にはとても信じ難いことなのです。
韓国という国は、世界に何も与えたことのない、
生活面、科学面、精神面のどの面においても、
世界にいいということをしたことのない国です。
今も行ってみれば、かわいそうで惨めな、
「人間の生活」と言うには遠い暮らしをしているのです。
そういう後れた国で、このような神の摂理が始まった
ということは、とても信じられないのです。
絶対と言っていいほど信じられないことを
信じるというのは、正常な立場ではないのです。
だから、この摂理を信じたならみな、
「狂った」と言われるのです。
☆
人間は天使に主管されて落ちてしまったから、
復帰は天使長以上に低い立場の人を立てて摂理してくるのです。
だから、今まで一つの家庭で救うのにも、
その家庭で一番信じられない者を神は立ててやってきたのです。
例えば、アダムの家庭においても、長男の権力が強い旧約時代に、
長男であるカインよりも、神はアベルを先に祝福したのです。
だからこのアベルに、長男は頭を下げ、
父母も主管されなければならないのだけれど、
それは、とてもできるはずのない、難しいものだというのです。
だから「血気」は、自分の目上の人に対しては案外起こりません。
問題は、自分より下の立場にある人に対しての場合なのです。
だからそこを努力して、自分以下の人に対して
謙遜になっていかなくては、到底天の道を行くことはできないのです。
主管性転倒2
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
今回のみ言を読んで、思い出したのが、
ノア家庭を中心とした復帰摂理において、
最後に書かれている教訓、「謙虚と従順と忍耐」でした。
ハムは裸の父を見て、人間的な判断で
天の立場にいるノアを批判してしまいました。
上の聖句では、病人を試されるようなことをした
イエス様ですが、弟子の足を洗う、という
当時、目下の人には行われないようなことをしています。
「父母の心情、僕の体」というみ言がありますが、
真のお父様は、ダンベリーにおいても、
僕の僕の生活を徹底していかれました。
イエス様も、真の父母様も
天の心情・事情に通じながら
「父母」の心情ゆえに「謙虚と従順と忍耐」の道を
行かれるしかなかったのでしょう。
真の父母様、イエス様が歩まれた道。
天の道を行くことができるように
私たちも心掛けないといけないな、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)