金元弼先生のみ言、
今回は、「授受作用から見た喜びと失敗」
前半部分を紹介します。
☆
ここで皆様にお話ししたいことがあります。
人は失敗するときに二つのポイントがあります。
人が失敗するのは、一番喜んでいる時、
次は一番苦しく、つらく寂しい時です。
一番つらく悩んでいる時に失敗する
ということはよく理解できるでしょう。
しかし、人が喜んでいる時にどうして失敗するか
ということは、皆さんもなかなか理解できないと思います。
それを創造原理の授受作用の原理で説明します。
存在というものは必ず主体と対象があって、
それがよく授受作用することによって、
初めて安定した存在を維持することができます。
私が呼吸をして、息を吐き出し、吸い込む場合に、
フーッというかたちでそれを表してみましょう。
そうした場合に、喜ぶというのは、
フーッと息を吹き出したのと同じで、
それを飽くまでやり続けて喜んでみたら、
息苦しさと同時に必ず何だかむなしさを感じます。
そして寂しさを感ずるのです。
それと反対に、非常に寂しくて泣いたとしましょう。
そうしますと、泣いた後は何となく
晴れ晴れしたような感じがするのです。
これは喜びの反対のことと考えてください。
必ず授受作用しなければいけないと言ったのですから、
問題は授受作用をどのようにするかということです。
☆
喜びを感じているときには、
この喜びが神から私にもたらされる前に、
神がサタンとの闘いを通じてどのように苦しまれたかを考え、
そして今、その喜びを私たちにもたらして
くださっているということを考えてほしいのです。
私たちが先生からみ言を受けたとしましょう。
そうしたらその恵みを私たちに与えるために、
先生は過去にどのような苦しみを通過してこられたのだろうか
という、その先生の苦しみを先に考えてほしいのです。
喜びを得たとしたら、その喜びを得るまでの
神の、主の、親の苦しみがあったということを
まず考えてほしいのです。
そうしますと、喜ぼうとする時に、この喜びを私に与えるために
神が、主が、親が、そして我々の先祖たちが苦しんだ後に、
このようになったのだということを考えて、
主体と対象の立場で、
まず感謝しようという心が出てくるのです。
ですから必ずこういう対象の立場を見つけて喜ぶのです。
☆
反対に寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。
寂しいというのを、一つの対象の立場
あるいはマイナスの立場として見てみましょう。
その時には、プラスの立場を見付けなければいけません。
人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。
その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、
なぜ愛する私たちにこういう苦しみを
与えなければならないのだろうか、こういう寂しい境地に
追い込まなければならないのだろうかと考えてみるのです。
それはそういう蕩減の道を通じて、
もっと大きな恵みを与えんとする神の愛が
あるからこそだということを考えなければいけません。
寂しさや苦しさを感じることを蕩減しなければならない
という条件が私たちに提示されたのです。
神は、子供にその蕩減を払わなければならない
条件があるのだから仕方がないのです。
しかしこれを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。
そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、
もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、
神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだという
神の愛を感じて、私たちは望み、
希望をもつことができるようになるのです。
授受作用から見た喜びと失敗
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々
信仰生活シリーズ 6
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金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々
☆
まず、喜ぶ時は舞い上がってしまってはいけない、
そのことを言われているのだと思います。
また、つらいときにも
自分の思いだけにとらわれて
落ち込んでしまう必要はないということでしょう。
真の父母様は、さまざまな摂理の中で、
多くの勝利を打ち立ててこられました。
その都度、祝勝会を成していかれましたが、
それは、自分だけで喜ぶのではなく、
天と共に喜び、
天に栄光をお返ししていかれました。
また、最近のお母様は、祝勝会、というより
出発式のような立場でなされておられます。
一つの節目としてとらえられ、
勝利をして一休み、ではなく、
先を見据えていかれるお母様です。
私たちも相続しなければ、と感じます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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