李ヨハネ先生の信仰生活講座。
今回は、「何を先にやるか」です。
☆
信仰の出発は、自分よりも何か他の問題、
公の問題を情的に心配することから始まるのです。
具体的にいえば、自分の家のことよりも
教会のことを心配するようになれば、
本当の信仰者としての道を歩きだしたのです。
青年においては、普通、自分の将来を心配するのですが、
良心的な人であれば、自分の家庭があるから自分があり、
民族があるから家庭があり、
国家があるから民族がある、というようになるのです。
だから、韓国の例でいえば、国家を心配する人は
ほとんど宗教に入ったのです。
だから、過去において日本に迫害されたのは、宗教人です。
国を愛する者は、全部キリスト教に入ってしまうのです。
なぜ信仰と愛国とが結びつくかというと、公の信念があるからです。
だから、愛国者とか科学者とかは、霊界へ行っても、
自分のために生きた人たちと一緒にいるのではなく、
特別に待遇されるというのです。
だから、私たちが何を先にやるかということも、
情的に扱わないで、頭脳で考えたり使命感で考えたりすると、
こっちもこうだし、あっちもこうだし、
どれも貴重に思えてどうにも判断できなくなるのです。
情的に判断すれば、私はこの教会が恋しくて来た、
すると掃除したくなっちゃったというようになるのです。
☆
韓国で、ある高等学校の先生が「原理」を聞いたのですが、
その先生は哲学を専攻していて、
韓国で一番有名な哲学者を訪ねていって、
人生問題を討論したりした人なのです。
その先生が創造原理を聞いてみると、あまりにも痛快に
問題が解決できるものだから、何か教会へ来て
仕事をしたいと、便所掃除をやり始めたのです。
「だれが毎日便所掃除をやっているのかな」
と私も思ったのですが、内緒で朝早く来てやっていったり、
夜遅く人が寝ている時にやったり、
一番人目につかない時を見つけてやるのです。
理論で考えると、「私はこの教会の信者になったのですが、
何をやるべきですか」と聞くはずですが、
やりたくてたまらない人は、
自分で自分のやるべきことを見つけるのです。
この高等学校の先生に対して、
「お前、便所の掃除をしろ」とは命令できないのです。
しかし、その人は自分から学校もやめて、
「原理」をマスターして献身してしまったのです。
奥さんも捨てて、二人の子供も孤児院に行くことになり、
本当に家族はかわいそうになってしまいました。
けれども、もしこの「原理」を知らなかったなら、
自分は結局、奥さんと子供を捨てて
自殺するつもりだったというのです。
だから、自分の奥さんには、「私は死んだと思って、
私のことは考えるな」と言って出てきたのです。
何を先にやるか
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
人は何のために生きるか、
誰のために生きるかによって、
その人の価値が決定します。
義人、忠臣と言われる人たちは、
世のため、人のために、人生を送りました。
さらに聖人と言われる人たちは、
世界のため、神様のために命を捧げていきました。
イエス様の公生涯はたった3年間です。
しかし、今も名を残し、数十億の人たちが、
イエス様を慕っています。
しかも2000年という歳月が経っているのに、です。
お父様は、家庭盟誓の中で、
「家庭では孝子、国家では忠臣、
世界では聖人、天宙では聖子・・・」
そのように表現されています。
昔は、「献身」ということで、
愛する家族を犠牲にして、
神のために歩む時代でした。
しかし今は、「神氏族メシヤ」ということで、
むしろ家族を愛する時代に入りました。
ですから、例にあった高校の先生の家庭のような犠牲は、
行き過ぎのように感じられるかもしれませんが、
そのような方々の歩みのおかげで
今のような時代圏を迎えられたのだという
理解と感謝は必要かと思います。
本然の愛で愛すべき時代となったとはいえ、
もちろん、なんでもかんでも
自分勝手に愛するということではないでしょう。
私的なこと、公的なこと、
どちらを優先するかということではなく、
どちらも心情を先立てて、
家族を愛するときも、み旨に関わるときも
神様を慕う気持ちを大切にしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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