基元節8周年、おめでとうございます!
今日は9時10分から記念式とのことです。
日曜礼拝において、
渡邊教会長が語られた説教を
2回にわたって紹介します。
説教題目は、「取り戻された『真の父母』」です。
自叙伝「平和の母」より
イエス様は、「私は神の息子であり、神は私の父である」、「私は独り子である」と言いました。独り子とは、天の父母である神様の初愛の実であり、初愛を受けることのできる王子を意味します。だとすれば、独り娘もいなければなりません。独り子は新郎であり、独り娘は新婦です。独り子と独り娘が出会い、結婚しなければなりません。それが聖書に出てくる「小羊の婚宴」です。この婚宴を経て、家庭を築くのです。天の父母様の願いとは、独り子と独り娘が真の家庭を築くことなのです。
人間の願いは、その真の家庭において、真の父母に出会うことです。人間は、真の父母の愛によって完成するのです。真の人間としてこの世を生き、永遠の生を生きるためには、真の父母に出会わなければなりません。たとえ死の道を行くとしても出会うべきなのが、真の父母です。歴史をすべて失い、後孫をみな失うことになるとしても、真の父母に出会えば、歴史を取り戻し、未来も取り戻すことができます。
☆
先日、真の父母様の御聖誕日を迎えました。
名節の中でも、とても重要な一日であると思います。
(また、誕生されたことも貴いですが、)
真の父母として立たれたということが、
最も大きな救いの出発であるということを我々は知る必要があります。
改めて、私たちは真の父母様にどのようにして信仰をつくし、
侍っていくかということが、
やはりこの人生の中で大切です。
お母様は最近、「孝情」という言葉を強調されますね。
日本語にそのままない言葉ですが、
漢字を見ると、親孝行の「孝」なので、親孝行ということだろう、
そういうふうにも思いますが、(「孝情」の意味を)
我々はしっかりと理解をしなければならないと思います。
信仰というと、それぞれ捉え方があるんです。
一番平たい捉え方というのは、信仰というのは神様を信じることです。
これ全然間違ってないんです。
でも、神様を信じる・・・その神様がどういう神様なのかというのは、
この言葉の中では規定されてないですよね。
そこで、「孝情」ということを考えたときに、
この神様がまず大前提として「親」であるということが出てきます。
神様は親でなければならない。
その神様を信仰してきた部分に対して、お母様が数年前に
孝情という言葉に変えてくれたわけですね。
今は、お母様は、どんな文言においても「孝情」を付けられます。
孝情なんとかみたいな、それがないと不信仰みたいな感じで(笑)
それぐらいに神様が親であるということを
私たちは忘れてはいけないんだということを強調されています。
「孝情」というときに、どうしても私たちは
お母様だけを見てしまうことがあります。
でもお母様は「私を慕いなさい」ということを
言われているわけではないのです。
もちろん真の母としてお母様はメシヤだから
イエス様が語られたように、
「私は道であり命であり真理である
私によらずしては神の国に入ることができない」
だから私たちは真の父母様を見なければいけません。
そういう意味では、父母様を、お母様を慕う
というのは正しいことです、だけれども、
お母様だけに留まってしまうと、
それはお母様の言われていることとまた違うのです。
お母様が見ているのは神様ですよ。
だから本当の孝情という時には、
お母様が見つめられている方向を同じようにしてみる
お母様が見ているものを同じくして見るということが
私たちにとって重要なことなのです。
☆
ここで、ひとつすごく大きな
私にとって忘れられない出来事があるんですね。
直接父母様とお会いした時のことではないんですけども、
私が初めて日本で伝道した時の経験をお話します。
私は鮮文大の神学部に行った、とお話ししましたが、
「神の道に自分も行く」と思ってここに来たはずなのに
自分自身に自信がなかったり、
どうしていいのかわからなかったりする中で揺れて揺れて、
休学をたくさんした結果、韓国に8年いました。
そして26歳の時に卒業して、
日本の公職に就くという決意になったんですね。
日本に来た、その1年の始まりが
千葉中央修練所の21修に参加をすることでした。
その21修のプログラムで3日間の伝道路程があります。
千葉駅の駅頭でペアを組んで、歩みました。
1日目、2日目、止まりはしますけど、
全然教育センターに連れていくことができませんでした。
そして、3日目になって、内的目標を「親孝行」にしよう、
修錬会でみ言を受けながら、神様に対する慕わしさとか、
父母様に対しての感謝であるとか、が思わされていたので、
とにかく神様に親孝行できる歩みをしたい、
というふうに思って3日目に入っていったのです。
でもやっぱり止まりはするけれど、
連れていくことができません。
伝道の時間が流れてしまいました。
教会まで戻る前、最後にペアで一緒にその任地でお祈りをします。
その時に私は、お祈りを始めました。
「今日は親孝行という思いであなたのために歩んだつもりでありましたが
何か精誠が足りなかったんだと思います。
あなたが本当に出会いたいその人を私が逃してしまった。
出会うことができなかったと思います」
ちょっと小さな声で祈ったその後に、
突然内から声が聞こえた、というよりも
感覚がバーンとこみ上げてきました。
私は親孝行として歩んでいたつもりだったんですね。
でも、このこみ上げてきた思いというのが
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」
その思いが体の中を駆け巡りました。
その瞬間、涙がバーッと出てきて、止まらなくなって、
一日の歩みが走馬灯のようによみがえりました。
歩みを振り返ってみたときに、
親孝行、と思いながら、神の手足で歩んだか、
そうではなかった気がします。
自分の自尊心というか虚栄心というか、
そういうものが先立っている伝道の歩みだったな。
とにかく一日歩み切ったし精神的にも投入した感はありました。
でも、祈ってみたときに、それが親孝行だったか、
本当に神様に対して今でいう孝情を捧げたいという思いで
歩んだ3日間だったかというと、全くそうではなかったんですね。
自分の親孝行というのは、誰よりも激しく歩んでいる
という見栄みたいなものだし、
何かこうポーズで何かやってる・・みたいな
「俺はこれだけやったぜ」みたいなことを周りの兄弟たちに示す
それが親孝行なんだろうか、恥ずかしくなりましたし、
ものすごく反省をさせられました。
その時に私の中に祈りとして与えられた神様からの言葉です。
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」
私は今まで、神様のためにこれをやってあげる、あれをやってあげる、
図々しくもそんな思いの方が強かったです。
でも自分の根本に、神は親だということに、思い違いがあったんですね。
親だと思ってきたし、今までだって、「神様はいない」とか、
神様も悪く思うことなど、一度もなかったです。
悩んだり迷ったりすることはたくさんありましたけれども、
でも、神様のことを捨てようと思ったことは
一度もありませんでした。
それは幸いでしたが、でもそんな自分の信仰すらまったく幼く、
人と比較をする自尊心だけの、そういう信仰だった、
その愚かさに気づかされました。
でもそんな恥ずかしい歩みでも
その歩みがなければ、それに気づかなかったと思うと、
伝道の実績は、何も与えられませんでした。
だけれども、その1日が神様から、
私に与えられたプレゼントだった、
導かれたのだ、と思います。
導きは、実績から感じるものだと思いがちです。
でも実績が与えられないことも導きです。
本当に良心に従い、信仰の中で神を思い、進んで行ったならば、
何も与えられなくても、そのときに私の中に宿る、
一つの思いが、神から与えられている実績なんです。
それを私は忘れてはいけないと今でも強く思います。
神様が親である、真の父母様が親であるということ、
これほど貴いものはないというふうに私は思っております。
文責:ten1ko2
渡邊一喜教会長
松戸家庭教会聖日礼拝 2.21
渡邊一喜教会長
松戸家庭教会聖日礼拝 2.21
☆
教会長が神様から与えられたメッセージ。
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」
これは、私たちにも願われていることだと思います。
日々の生活においてもそうですし、
また、心情の壁にぶつかるようなことがあったり、
何か限界に直面したりするような時ほど、
神様が私の親である、
その意識を強く持っていきたい、
そのように思いました。
基元節を宣布されるために、
真の父母様が苦労と犠牲の道を歩まれた、
その土台があって、今日の8周年を迎えています。
そのことを何よりも感謝して、
常に孝情の心情を持っていけるようにしていきたいと思います。
明日に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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