反省、自覚してからが肝心、本当の悔い改めのためのステップ
奈田先生の「父母と共なる生活」
サタンと決別して
神様の者となるためには、
「悔い改め」が必要だということ。
悔い改めの5つの段階、
今日は、2つめと3つめです。
☆
四 悔い改め
(2)心の転換
(2)心の転換
さて、自分が醜い存在であることを
自覚してからが問題です。
それから、どのように心を転換していくかが大切なのです。
今までとは違った生き方をしなければ意味がありません。
自己中心だった考えが
神を中心としたものにならなければならないのです。
☆
また、神を中心とするということはよく言われますが、
全体を中心としていくことも重要です。
そこで、自分の立場をはっきりさせていくことが必要です。
自分を中心としてものを見るということを遂にすれば、
神を中心にするということになります。
具体的には神の代身を中心にするという見方であり、
すなわち、全体を代表するという見方になります。
自分のことよりもまず全体を中心にして考える
というもののとらえ方、考え方を
しっかりと身につける必要があります。
☆
それから、瞬間だけ、その場だけというのではなく、
時間を置いてみることも大切です。
その場で全部答えを出してしまわないで、
少し時間を取って考えてみるとか、永遠性をもって
考えるというように、見方を切り替えていくのです。
そのようになって初めて、告白という段階に至るのです。
☆
(3)告白
告白というのは、「もう黙っていられない。
この嫌な自分をどうしたらいいのでしょう」
と言うようになることです。
その時の参考として、次に聖書の詩篇から
抜き書きしてみました。
「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、
わたしの嘆きに、み心をとめてください。
わが王、わが神よ、
わたしの叫びの声をお聞きください。
わたしはあなたに祈っています」
(詩篇五篇1〜2節)
☆
「主よ、いつまでなのですか。
とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に
悲しみをいだかなければならないのですか。
いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。
わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、
わたしの目を明らかにしてください。
さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
わたしの敵は『わたしは敵に勝った』と言い、
わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう」
(詩篇一三篇1〜4節)
☆
これはいずれもダビデの作といわれるものです。
これらの告白は、ダビデのように王になった人までも、
このように神を求める姿勢があったということを物語っています。
罪に陥った者が、本当に謙遜に、
悲しみに暮れている姿が見られます。
人間はそういう姿に一度立たなければ、
神を迎えることができません。
神はそういう訴えの背後で、
「真実のお前の姿をどれほど探したか」
といつも叫んでおられるのです。
そのように、私たちは本当の意味で
神と邂逅する一瞬を迎えなければならないのです。
☆
この告白にあたって注意すべきことは、
自分が罪人だという意識で落ち込むのではなく、
その意識を神の方に向けるということです。
「神様は本当にそういう心を待っていた。
そういうあなたを待っていたのだ」と、
告白を受けた者は
一緒に泣いてあげるぐらいでなければなりません。
そこで、神と結びつくことができて
本当によかったという実感がわき起こってくれば、
その一瞬で大きく転換されてくるのです。
☆
罪ある者はどんなに悲しいかという例を
聖書の中から見いだし、人にも教えてあげるとよいと思います。
罪というものを悟ると、人間は本当に無力だ
ということが分かるようになります。
そういう状況にまでなって
祝福に至るのが正当だと思います。
奈田壽美子
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
☆
人間というのは、自然の前に無力なのに、
万物をなりふり構わず主管する
身勝手な存在です。
創造主であり、人類の親なる
神様、天の父母様の存在を知ったなら、
神様の前に委ねざるを得ないし、
謙虚な心情を持つことができると思います。
真のお父様は、神の独り子である自覚を持ちつつも、
日本留学をされたころに、早稲田、高田馬場周辺を
「45度以上顔を上げて歩けなかった」といいます。
ご自身を罪ある人間と見立てて歩まれた、
真なる親としての深い心情を感じます。
私たちも神様の前に謙虚な心をもって
「より頼む」者になっていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)<
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