2021年04月30日

なんで頭を下げるのか、身を浄める意味は?! 体→心の聖別 《奈田先生 聖別2》



210430.jpg


奈田壽美子先生の「父母とともなる生活」
今回は、『外的な聖別から内的な聖別へ』です。

五 聖別の道
(3)外的な聖別から内的な聖別へ

私が以前、立正佼成会にいたころ、
お当番になると朝早く起きて水をかぶり、清めて、
陀羅尼経という悪魔を払うお経を
何回も読んで出掛けたものでした。

最初は、トイレ掃除や下足番など、
人が嫌がるようなことばかりするのです。
そのうちに、よくやったというので、
畳を拭くところまで上げてくれます。

それが終わってからやっと祭壇の前まで進めるのです。

たすきを掛け、数珠を掛け、
本当に身も心も聖別していきました。

心を聖別していないと、水をあげたとき、
そこに泡が立つというのです。
水の中にちょっとでもごみが入っていると、
「あなたの心の中にごみがあるよ」と言われたり、
何か少しでも異変があれば大変です。

たすきがちょっとよじれていても
後でお説教されるので、とても緊張します。


ですから礼拝の場は、深々と頭を下げて、
靴を脱いで入っていくような、
本当に聖別された雰囲気にしなければなりません。

そういう態度が必要なのです。


少なくとも旧約時代には、万物は人間を復帰するために、
とても多くの血を流してきました。
罪もないのに人間の身代わりとなり、
血を流しながら本当に従順に従ってきたのです。

聖められたものを人間が食べたり、
万物を供えて条件にしながら、
自分自身の立場を復帰する歩みを続けてきたのです。

それを神が命令しなければならなかった立場を考えると、
神にも申し訳ないし、万物もかわいそうです。
こういう摂理の背後にある
神の心情を考えていかなければなりません。

このように万物を供えることを通して、
人間が神に対する畏れの心を持ち、
自分で自分が罪人であることを知れば、
今度は外的なものから内的なものへと進んでいくのです。


新約時代に、イエス様が私たちに示してくださった内容は、
自分自身をどこまで分別するかということです。

肉身の命に代えても真実の生命に出会うということ、
死から生命に復活するということは
そうたやすいものではないということです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
五 聖別の道
(3)外的な聖別から内的な聖別へ


「聖別」。
キリスト教用語なので、
日本人にはあまりなじみがないかもしれませんが、
それぞれの宗教や地域で様々な儀式や呼び方は、
異なるものであっても、
根本は、みな聖別する、ということなのだと思います。

特にユダヤ教、キリスト教は、
摂理の中心宗教として、
4000年間、信仰を立ててきました。

その土台の上に、真の父母様が立たれ
私たちも、その道をたどることができます。

聖別とは、キリスト教では修道院のように、
俗から切り離して分けることをいうようですが、
なかなか日々の生活の中で
きっちり聖別することは、
意識のいることではないでしょうか。

聖別で体を打ち、浄めることもいいですが
清掃をしたり、奉仕をしたり、
為に生きること、愛の実践(伝道)を通しても、
より内的な聖別ができるのではないかと思います。

聖別することで、神様に通じやすい
私となることができるでしょう。
そうして、神様に応えて歩んでゆけば、
さらに聖別されていくことでしょう。

お父様が、
「環境によって変わる葉となるな」と言われ、
お母様は、私たちが
「ピュア・ウォーター」であると言われました。

聖別、もう一度認識を
あらたにしていきたいと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 09:55 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月29日

6100組が全世界で揺れた?! 天の父母様聖会で初・祝福祝祭 《祝祷》+my教区情報 



210429-2021.0425.jpg


先日行われた祝福祝祭の、
真のお母様の祝祷と、
中継された式典の様子、
また、中継されていない
私たちの教区の様子をお伝えします。

◆6100組の新郎新婦が祝福家庭として出発◆


   4月25日、韓国・清平の清心平和ワールドセンターで
   天地人真の父母様天宙聖婚61周年記念
   「2021天地人真の父母様孝情天宙祝福祝祭」
   が開催されました。

 
韓鶴子総裁の祝祷

真の父母は、60年余り、
ただひたすらその一日を見つめながら、
天が探し求めてこられるその大きな祝福が分かるので、
数多くの苦難と迫害を耐え忍びながら走ってきました。

そして2013年、天一国を宣布するようになり、
7年路程を通じて、天の父母様を
地上にお迎えするための環境圏をつくるために、
国と各界の宗教団体と大陸を祝福する位置まで
進み出て、2020年に天一国安着を宣布しました。

これがいかに天が待ちこがれ、
人類が待ちこがれた日であるのかを
摂理を知っている祝福家庭たちは知っています。

しかし78億という人類について見るときに、
彼らの方向を定めてあげて祝福の位置まで
導くべき責任を、祝福家庭と真の父母が
地上にいる間に必ずやり遂げなければなりません。

聖婚61周年を迎え、新たな出発を始める日でもある
この日、全世界に未婚6100双を
天の父母様の名の下、真の父母が祝福することにより
新しい祝福家庭が誕生します。

この者たちが国と世界の前に与えられた
責任を果たすようにしてくださいませ。

本日ここで祝福を受けたあなたの子女たちは、
天の前に感謝と頌栄をささげることはもちろんのこと、
この者たちが責任を果たすことによって
天の父母様の夢と人類の願いの成就が
繰り上げられることを理解し、
全ての面で責任を果たさなければなりません。

そのような位置が、国と世界の前に大きく、
とこしえに歴史に残り得る英雄、
忠臣の位置になることを肝に銘じ、
その唯一の道を走っていこうと決心する
この場であることを知っているので、
天の父母様、喜んでお受けください。

この者たちは、天の父母様の夢と人類の願いである、
天の父母様の下の人類一家族の天一国完成に
向かって走っていき、変わらないことでしょう。

真の父母は天の父母様の前に感謝と頌栄をささげ、
この者たちが責任を果たすことを信じて、
この全てのみ言を真の父母様の名前で宣布し、
祝願申し上げます。
アーヂュ。


第1部「祝福祝祭」、
第2部「天宙聖婚61周年記念式」で構成されたこの日の行事は、
韓国の清心平和ワールドセンターに天地人真の父母様をお迎えし、
全世界64カ国の祝福会場をインターネットで結んで行われました。

世界各地の会場から参加した6100組の新郎新婦が祝福式に臨み、
祝福家庭として新たに出発しました
(清心平和ワールドセンターの会場には150組が参加)。

主礼の韓鶴子(ハンハㇰチャ)総裁は、
「この者たちは、天の父母様の夢と人類の願いである
天の父母様の下の人類一家族の天一国完成に向かって、
変わることなく走っていくでしょう」と力強く祝祷されました。


第2部「天宙聖婚61周年記念式」では、
ミュージカル公演、祝賀のケーキカット、
世界の各界の指導者からの祝辞、
孝情文化公演などが行われましたが、
特筆すべきことは、今回の一連の行事が
天の父母様聖会の出帆以降初めて行われた
真の父母様のご聖婚記念行事であり、祝福結婚式だったということです。

(blessed lifeより)
順序を入れ替え
一部割愛しました
文責:ten1ko2


今回は韓国のメンバー以外は、
誰も現地にいくことはできませんでしたので、
史上初めて、全世界オンラインにおいての祝福式でした。

私たち北千葉教区においては、ホテル開催、ということもあり、
双方向通信に選ばれての開催となりました。

当日スタッフとして、何回も打ち合わせをして臨みました。
一番大変だったのは、教区のスタッフたちだったと思います。

何度もホテルの下見、ホテルスタッフとの打ち合わせ。。。
また、当日は、朝5時半に集合しました。

前日も現地とのリハーサルをしたそうですが、
当日においても変更部分があったり、開始直前まで、
いろいろと準備が簡単ではなかったです。

また、ホテル内のネット環境など、
困難なこともありましたが、
式典を無事に視聴することができました。


210429-2021.0425 (2).JPG


中継が終わった後、部屋を移った
午餐会においては、新郎新婦の中で、
3名のメンバーが音楽アーティストであり、
お互い仲が良かったこともあり、
コラボ演奏で盛り上がりました。

(ちなみに、そのうち二人は、
アップル・ヘブン・ジャパンの
ボーカルとメンバーです。
即興で)

また、新郎2名の即興コントもありました。
本来ならお祝いされる当事者たちが、
みんなをお祝いする思いで、エンタメをしてくれたこと、
新しい時代の幕開けを感じるひと時でした。

新郎新婦の皆様、ご父兄、ご親族の皆様、
祝福式、おめでとうございます!

また、世界本部をはじめとした
裏方の皆様、お疲れさまでした。

何よりも、コロナ禍でありながらも
貴い祝福式を挙行してくださった
真の父母様に心から感謝いたします。


210429-2021.0425 (3).JPG


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 10:41 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月28日

(証し)真の父母が天国だと知りました! まさに神、お母様の初来日エピソード



210428-1967.0613.jpg


光言社刊「真のお母様、感謝します」より
『真の父母様が天国そのものであることを実感』です。

 
1967年6月、真の父母様が
三人の子女様を伴って来日されました。
真のお母様にとっては初めてのご来日でした。

歓迎会で挨拶に立たれた真のお母様は、
「胸がドキドキして鳩のようです」とおっしゃいました。

ちょうど、おなかに恩進様がいらっしゃったと思うのですが、
本当にお優しく、しぐさの一つ一つも美しく、おしとやかでした。
私は、「こういうお姿が真の女性なんだ」
と感動しました。


ご滞在中は目黒に準備した小さな二階家で宿泊され、
私はその期間、ご家庭に侍ることになりました。

真のお父様が会議を終えて戻ってこられると、
お母様が階段を下りてこられます。
決してダダダッと駆け下りるのではなく、
音もなく静かに下りてこられるのです。

階段の途中から首をかしげてお父様をご覧になり、
そんなお母様をお父様も見上げておられるー。
まるで映画のように美しい光景でした。

当時、五歳に満たなかった孝進様は、元気に走ってきて、
お父様の首にパーツと飛びつきます。
そしてそのまま十分も二十分もずっと
首にしがみついていらっしゃるのです。

いつ降りなさいと言われるかとびくびくすることもなく、
「いつまでもそうしていていいよ」という世界でした。

 
ある時、孝進様がナイフをいじっていて
指を切ってしまわれたことがありました。
血がパーツと出て、孝進様は大声で泣かれました。

お母様がその声を聞いて二階から下りてこられ、
「孝進、そんなに泣かないのよ」と静かに諭されました。
落ち着いたお母様のご様子に、
慌てていた私たちもほっと安心したのでした。

 
初めて間近に拝見した真のご家庭には、
愛と信頼の絆があると思いました。

それまでは「闘うお父様、先頭を行くお父様」でしたが、
お母様や子女様とご一緒のお父様を見て初めて、
ご家庭の中のお父様を知ることができたのです。

このような真のご家庭のお姿を通して、
私の信仰観が変わりました。

「原理」は単なる理論ではなく、実体のご家庭、
真の父母様が原理の実体であり、
天国そのものであること、
この真っ暗な世界の中で真のご家庭だけには
神様が宿っていることを実感したのです。

真の父母様が天国そのものであることを実感
                   梶栗恵李子(四三双)


真のご家庭の何気ない日常。。。
1967年当時は、外的に質素だったと思います。

しかし、そういうことが問題ではなく、
ご家庭の中でのやり取りを通じて、
背後に神様がおられることを実感された
梶栗夫人でありました。

昨日は、真の父母様ご聖婚61周年。
記念式典の行事をネット配信で視聴しながら、
お父様がその場におられない寂しさもありましたが、
聖餐の場でお母様が召し上がられている姿の背後に
お父様もともにおられることを感じさせられる
ひと時の時間でした。






にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)