奈田壽美子先生の「父母とともなる生活」
今回は、『外的な聖別から内的な聖別へ』です。
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五 聖別の道
(3)外的な聖別から内的な聖別へ
(3)外的な聖別から内的な聖別へ
私が以前、立正佼成会にいたころ、
お当番になると朝早く起きて水をかぶり、清めて、
陀羅尼経という悪魔を払うお経を
何回も読んで出掛けたものでした。
最初は、トイレ掃除や下足番など、
人が嫌がるようなことばかりするのです。
そのうちに、よくやったというので、
畳を拭くところまで上げてくれます。
それが終わってからやっと祭壇の前まで進めるのです。
たすきを掛け、数珠を掛け、
本当に身も心も聖別していきました。
心を聖別していないと、水をあげたとき、
そこに泡が立つというのです。
水の中にちょっとでもごみが入っていると、
「あなたの心の中にごみがあるよ」と言われたり、
何か少しでも異変があれば大変です。
たすきがちょっとよじれていても
後でお説教されるので、とても緊張します。
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ですから礼拝の場は、深々と頭を下げて、
靴を脱いで入っていくような、
本当に聖別された雰囲気にしなければなりません。
そういう態度が必要なのです。
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少なくとも旧約時代には、万物は人間を復帰するために、
とても多くの血を流してきました。
罪もないのに人間の身代わりとなり、
血を流しながら本当に従順に従ってきたのです。
聖められたものを人間が食べたり、
万物を供えて条件にしながら、
自分自身の立場を復帰する歩みを続けてきたのです。
それを神が命令しなければならなかった立場を考えると、
神にも申し訳ないし、万物もかわいそうです。
こういう摂理の背後にある
神の心情を考えていかなければなりません。
このように万物を供えることを通して、
人間が神に対する畏れの心を持ち、
自分で自分が罪人であることを知れば、
今度は外的なものから内的なものへと進んでいくのです。
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新約時代に、イエス様が私たちに示してくださった内容は、
自分自身をどこまで分別するかということです。
肉身の命に代えても真実の生命に出会うということ、
死から生命に復活するということは
そうたやすいものではないということです。
奈田壽美子
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
五 聖別の道
(3)外的な聖別から内的な聖別へ
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
五 聖別の道
(3)外的な聖別から内的な聖別へ
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「聖別」。
キリスト教用語なので、
日本人にはあまりなじみがないかもしれませんが、
それぞれの宗教や地域で様々な儀式や呼び方は、
異なるものであっても、
根本は、みな聖別する、ということなのだと思います。
特にユダヤ教、キリスト教は、
摂理の中心宗教として、
4000年間、信仰を立ててきました。
その土台の上に、真の父母様が立たれ
私たちも、その道をたどることができます。
聖別とは、キリスト教では修道院のように、
俗から切り離して分けることをいうようですが、
なかなか日々の生活の中で
きっちり聖別することは、
意識のいることではないでしょうか。
聖別で体を打ち、浄めることもいいですが
清掃をしたり、奉仕をしたり、
為に生きること、愛の実践(伝道)を通しても、
より内的な聖別ができるのではないかと思います。
聖別することで、神様に通じやすい
私となることができるでしょう。
そうして、神様に応えて歩んでゆけば、
さらに聖別されていくことでしょう。
お父様が、
「環境によって変わる葉となるな」と言われ、
お母様は、私たちが
「ピュア・ウォーター」であると言われました。
聖別、もう一度認識を
あらたにしていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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