2021年04月27日

私の信仰が私を救う?! 食べるのも生きるのも神のため 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



210427-paul.jpg
足の悪い青年を癒すパウロ


李ヨハネ先生「信仰と生活」
今回は、『本性』です。


「固執」という堕落性がありますが、
これは忠誠の本性が逆転してなるのです。

ゆえに、固執の強い人がもし信仰に入れば、
忠の強い信仰者になるのです。

パウロなど、そもそも固執の強い人間だったのです。
このように本性も、立場が違うと、堕落性になってしまうのです。

だから、堕落性があるからと、簡単に自分を
悪と決めつけたり、思ったりしてはいけないのです。

それも使い方によっては、本性としての
素晴らしさを発揮できるのであって、
ただ立場が違うと、罪になるのです。

立場が元に返ると、それは本性になってしまうのだから、
したがって罪というものはないというのです。

 
なぜ罪というのでしょうか。
サタンの立場に立つから、罪という言葉が出てきたのです。

だから、それを切り替えるイエス様一人によって
皆の罪がなくなる、贖罪できるのは、
ここに理由があるのです。

しかし、今まで修行した人、信仰した人たちは、
必死になって、食べずに、眠らずに、
ひざにまめができるほど祈ったけれども、
結局、自分の本性も、サタンの正体も
つかむことができなかったのです。


よみがえるというのは、私たちのその本性を
よみがえらせるということではないのです。
サタンの霊によって、サタンの結果が結ばれていた本性を、
また神の聖霊によって、聖霊の実が結ばれる本性にするのです。

だから、信仰すれば今までより高い、より公の情、
すなわち自分よりも家庭、家庭よりも民族を
心配するというように、情の方向が違ってくるのです。

信仰する前とあとでは、今までとは違って
人のために涙を流すというように、情のレベル、基準が違うのです。

結局、自分よりも他人、他人よりも歴史とか未来、
それよりも天の創造目的のためにという、
この世で比べられない永遠なる情にまで行くのです。


皆さんは、自分の物足りない部分というか、罪というか、
そういう自分の欠点にこだわってあまり心配してはいけない。
それよりも、私たちは神の心配を分け持たなければなりません。

食べるのも生きるのも神のためであるのなら、
私たちの情というものも、神から来るものと思わなくてはなりません。
今までのサタンからの情を切って、
立場が違ったということを分からなくてはいけない。

今までの自分と思ったなら、いくら信仰しても
そのままになってしまうのです。

聖書にあるように、君の信仰が君の願いをなすというのです。

病人に対して、「汝の信仰が病気を治した」というのと同じく、
皆さんが自分をだれのものと思うかということが大切なのです。
自分の情も、神のものと思えばいいのです。

既成教会の人たちはこれを知らないので、
いつも、「罪人、罪人、どうかこの罪を救い給え」などと、
すらすらと言っているけれども、
自分の位置は神側に来ているのです。

1.牧会
本性

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


私の持っている情を善を中心として使うか、
悪を中心として使うか、このことで
本性、堕落性が決定するということです。

自分は幼いとか、足りないとか、
罪深いとか、また、欠点ばかりが
目についてしまうかもしれません。

しかし、そんな私だったとしても、
どのように見つめていくかによって
大きく変わっていくといいます。

神様を中心に物事をとらえていく、
その心の見つめ方が重要であると
あらためて思わされるのです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 10:20 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月26日

蛇ににらまれた蛙だった私、夫の良心の声を聞いてみると・・・ 《自己牧会プログラム》



210426.jpg


自己牧会プログラム
今回は「本当は怒りたくないんだ」です。

(韓国在住日本人女性 50代)

用事で出掛けていた時のこと、
夫(韓国人)から電話がありました。
夫はあることで腹を立て、怒りながら電話してきました。

毎度のことながら、夫が怒ると
私は全身の血が全て下に下がるような感覚になり、
頭の中が真っ白になってしまいます。

その時も激しく責められ、私はヘビににらまれた
カエルのように固まってしまいました。
それからは、もうそのことに完全に囚(とら)われて、
やりかけのことに集中できなくなってしまいました。

必死で「自覚を取り戻す」ワークをしながら、
心に平安を取り戻そうとしましたが、うまくいきません。


ふと思いついて、
「◯◯さん(夫)の良心は何と言っていますか?」
と問い掛けてみました。

すると驚いたことに、
「私だって本当はこんなふうに怒りたくないんだ」
という答えが返ってきました。

さらに、「私だって本当は許して愛して感謝して、
一つになりたいんだ」と来たのです。

「え〜!」と驚きましたが、
「やっぱりそうか」と腑(ふ)に落ちました。


すると、全ての人の良心が、
「私だって許して愛して感謝して、一つになりたいんだ。
私だって神様、真の父母様に侍って暮らしたいんだ」
と言っているような気がしました。

その時から、「みんなが一つになりたいと思っている」
ということに確信が持てるようになりました。

これからも良心との対話を続け、尋ねて、
心に答えを感じ取れるようになっていきたいと思います。

私の心の中にいる神様 65
「本当は怒りたくないんだ」


自己牧会プログラムは、
日本から出発したものですが、
韓国をはじめ、東南アジア、
ヨーロッパなど、あらゆる国に広がっています。

それぞれの国、民族の特性はあったとしても、
「良心」は人類共通です。

自分の良心を目覚めさせることで、
相手の心を開かせることができるのだと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)





 
posted by ten1ko2 at 09:02 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月25日

牢獄の中で主を迎える?! 20世紀の春香は主の花嫁になれたのか 《金元弼先生》



210425-2006_06_13.jpg


金元弼先生のみ言。
今回は、「聖主教と腹中教」です。


先生が平壌に来られたとき、平壌には
再臨の主を迎えるための準備をしていた集団が、
既にその三、四十年前からありました。

平壌は韓国のエルサレムといわれ、
至る所で神から直接啓示を受けた人がいたのですが、
その中に聖主教というのがありました。
金聖道(キム ソンド)教主がつくった教団です。

その集団では、神が直接その集団の中心者である婦人に
いろいろと真理の啓示を与えていました。

そこでは、人間の根本の罪は何であるか、
またどうしてイエス様は十字架につかれたのか、
そのイエス様の十字架は既定事実であったのか、
そうでなければ人間が不信した結果として
生じたものであるかということです。

また、メシヤは雲に乗って再臨するのか、
普通の人の子として再臨してくるのかということに対しても
一つ一つ教えてくださいました。

その婦人は何も勉強していない田舎の婦人でした。
それゆえにその婦人は、神の啓示は受けるけれども
原理的になぜそうであるかということに対しては
全く分かっていなかったのです。

その話は、キリスト教の信者においては受け入れ難い内容でした。
しかしながら、いろいろとたくさんの奇跡を行っていましたので、
その言葉を疑うことは難しかったのです。

実際には聖書的に証されていない内容のゆえに、
大変な迫害を受けました。


先生が来られた平壌にはそういう流れをくんだ集団がありました。
この集団では、再臨の主は韓国の人として
この国に来られると啓示の内容を表明しました。

この集団の信者は全国から集まって、
常に自分のすべての真心と財産をささげ尽くし、
その再臨の主を迎えるために具体的な準備をしていました。

イエス様の時代には、人々がイエス様を信じられなくて、
イエス様は馬小屋で生まれなければならず、
ヨセフは誕生日が来ても何も祝わないし、
村の友達がお祭りの時良い着物を着ているのに、
イエス様だけは着たいものも着れず、
学校にも行けなかった恨みがあったというのです。

イエス様が再び来られた時そのようなことにならないために、
イエス様が生まれる時から亡くなられるまでの
すべての家具やら衣類などすべてを準備していました。
それも東洋式と西洋式で全部準備していました。

聖主教の婦人の流れをくんだ中年の婦人がこの準備をしていました。

その許孝彬氏にイエス様が現れて、
「私があなたにお告げをする時には、
ちょうど子供が母親のおなかの中にいる時に子供が動くように、
あなたのおなかにそういう兆候が現れる。
そうしたら、私があなたに現れて色々お告げをするでしょう」
と言われました。

それで腹中教という名前もあったのです。


ある時、イエス様が現れて、
「自分がこの世にいた時にあれくらい寂しい生活はなかった。
食べたい物があっても食べられない、
着たい物があっても着れない、
学びたいけれども学校に行って学ぶこともできなかった」
と寂しかった時のことを直接彼女を通して話してくださったそうです。

この話をしてくださった時、彼女はイエス様がお気の毒で
本当に泣かされて泣かされてならなかったのでした。

そこでその集団では、その恨みを晴らしてあげなければいけない、
再臨のメシヤを迎える時には絶対に過去にあったようなことが
あってはいけない、ということで万全の準備をしたわけです。

再臨のメシヤを迎えることによって、
そういったメシヤの恨みを晴らすことができるということです。
そのために、準備をするのに本当に心を尽くしたのです。


着物を作るにしても、準備する人は身を清め、
そして着物を作る部屋を清め、物を買うにしても
絶対に誰も手をつけていない新しい布を買ってきたのです。
物を買うにしても、値段をまけさせるということはしませんでした。
その理由が分かりますか。

メシヤはこの上もない貴重なお方ですから、
メシヤが着る着物を準備する人の心というのは、
金があれば金の着物を作りたいのが願いです。

メシヤが着る着物ですから、高いということはありえないのです。
メシヤの価値に比べたら、すべての物は
あまりにもあまりにも安いものであると考えたのです。

高いからまけてもらうということは心が許さなかったのです。
そして着物を作り始めるにしても、その当時は
機械がありませんでしたから、全部手で縫うのです。
心を込めて針で縫ったのです。

もし着物を作っているところに子供が入ってきて、
作っている着物に触ったりでもしたら、
またやり直さなければなりませんでした。

 
ある時、その集団では再臨のメシヤがかぶる
韓国古来の帽子を作ることになりました。
ところがそれは北の平壌にはありません。

そこで南のソウルに行って、それを有名な人に作ってもらい、
平壌まで運ばなければなりませんでした。

汽車に乗って持ち運ばなければなりませんが、
帽子を荷物の上に置くこともできないし、
また他のいろんな所に置くこともできません。

ですから頭の上に掲げて持って来たのです。
二人の人が支えて十時間以上もかかる汽車の道のりを
そのようにして運んだということをみても、
どれほど心を込めて作っていたか、
準備したかということがお分かりだと思います。

 
また食卓を準備する時には、メシヤをそこに迎えたのと
同じ思いで準備し、食事をしました。
ですから彼らは常に霊的にもメシヤと共に生活をしたのです。

この人たちは特に全国から集まって、
祝祭日の日を共に過ごし、歌ったり
あるいは恵みの中に踊ったりして喜びを分かち合っていました。


ちょうど一九四六年ころに神は霊能者を通して啓示し、
牢屋の中で再臨の主を迎えるであろうということを常に教えてくれました。

韓国には春香伝という李朝中期に作られた物語があります。
その主人公と同じように「お前は牢屋の中で
再臨の主を迎えるようになるだろう」と教えてもらいました。
第二次大戦が終わった時のことです。

またイエス様は、「お前たちの集団の幹部は
自分たちで集まろうとせずとも、
全部が集まるようになることが起こるであろう。
その時にお前たちを迎えに行くだろう」とお告げしました。

彼らを迎えに来るというのですから、
再臨のメシヤが迎えに来るに違いないと思っていました。

また、イエス様は中年の婦人を指して、
「来るべき再臨の主の前においてお前がその花嫁になるだろう」
と教えていました。


春香伝の内容というのは、妓生の娘春香と
両班の息子李夢竜が約婚しますが、だんなさんは
国の試験に合格すれば大きな職を与えられるという
儒教の科挙制度の一つがあって、そのために勉強に行くようになります。

そして春香は主人が成功して帰るまで待つようになります。
結局はその主人は成功して帰るのですが、
その間にこの地方の悪い長官(卞使道)は、
春香に「妾になれ」と強いて言い寄りました。

けれども、それを拒まれたので、長官は怒って
その女を殺そうとして牢屋にぶち込んだのです。

そういうところにたまたま、彼女の主人が
科挙に合格してふるさとに帰ってくるのです。
その主人はふるさとに帰る時に、王様から巡回、
暗行御史に任命されて地方を回り、
悪い政治を行う人たちを治めるための密使のような
使命をもっていたので、こじきの姿で現れました。

そしてちょうど自分のフィアンセが殺されようとする、
その時に彼が現れます。
こじきの姿で牢屋に行く場面があります。

「私はこじきになって、何も成功しないで帰ったのだ」
と言った時、奥さんが言う有名な言葉があります。
「あなたがこじきにしろ、こじきでないにしろ、
あなたは私のだんなさんでございます。
私の愛そのものです」と言って牢屋の中で別れるのです。

そして死に直面した時に、この男がこじきの衣を脱いで堂々と現れるのです。
こうしてついに、その地方の悪い官吏を取り除いて、
女を救って二人が再び会う場面があります。


それは、再臨のメシヤが王の王として来られるけれども、
私たちのような俗人の立場で現れ、
そして信仰者はイエス様の相対になり、
新婦は非常にたくさんのサタンの迫害の中で
信仰を守りながらメシヤを迎える、というのと同じような内容です。

春香伝のストーリーにあるごとく、
再臨の主を牢屋で迎えるだろうと教わっていたのでした。



聖主教と腹中教のことは、
皆さんもだいたいのことは、
ご存じかと思います。

真のお母様の実母、大母様が
その両方に関係していたので、
お母様の自叙伝にも書かれています。

腹中教の末路については、次回に詳しく紹介されますが、
聖主教は、金聖道の子息が、
のちに真のお父様を直接訪ね、
残った信徒も入教するようになりました。

この元弼先生の証しには、
具体的なエピソードが紹介されていて、
メシヤを迎えるために、これほどまでに
真剣に侍っていかれたのかと、
凄まじい精誠であると思います。

生きた主に侍る私たちの姿勢も、
ここまで真摯であるか、
反省させられますね。






にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:06 | Comment(0) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする