2021年04月09日

為に生き、伝道しているうちに、自分の悩みは解決されていく?! 《李ヨハネ先生》



210409.jpg


李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「自分の悩み」「神の直接干渉」です。


自分の悩み

教会長が自分の主体とならないことを不平に思う人が多いのです。

教会長に言いたいけれども、言えないから帰ってきたといって、
自分たち同士で話す人が多いのですが、
悩みを自分たち同士で話したら、サタンが奪っていくのです。

その内容を胸にたたみ込んで、
天に結んでくれる位置にいない人には、絶対言ってはいけないのです。

人間はだれでも、自分より悲しい人を知っています。
かわいそうな人の立場を知っているのです。

小学校を卒業した場合、その知識をもって、
どこかに使い道があるのです。
僕も使い道があるのだろうと思ってみれば、重要な位置があるのです。


それと同じく信仰者というものは、自分の解決ができなかったなら、
これはもう、しようがない。
「自分のことが解決できないで何をするんだ」
というふうに悲観しないのです。

自分より悩んでいる人を見た時に、自分の経験を話しながら、
「あなたもこれを聞いてみなさい。
私は、あなたが今悩んでいるくらいのことは解決した」と言って伝道するのです。

その人が自分の思い、罪悪の問題を解決して喜ぶのを見て、
自分が今までもったものを、本当に神に感謝するようになるのです。

なぜなら、二人か三人、その新生する人を、
とにかく信仰するように導いてあげると、
自分が今までもっていた問題は、天から自然に解決されるのです。


    
神の直接干渉

人間同士でもそうですが、自分のことを
人に尋ねるのはなかなか難しいでしょう。
「私の未来はどうなりますか、こうしていいですか、ああですか」
こういうことは、ちょっと聞きにくく、相談しにくいのです。

直接その人に言わずに、その人に一番近い人に、
その人の未来など、神の秘密を言ってあげるのです。

あの人は、このごろこうだが、どうもそれではいけないのだが、
という心配を第三者に言ったとすると、それを聞いた人は、
相談した人に直接そのことを忠告するのです。

そこには五パーセントというものはないのです。
だから三位基台の上にいる人は、神様が直接干渉する立場になっています。
したがって、信仰の道は一人では行かれない、ということなのです。


一人で行く時には、秘密が多いのです。
だから霊通した人でも、一人で祈って、一人で通じた人に対して、
天は直接言わずに、象徴的に現したり、啓示するのです。

それを聞いて、そのまま解釈しようと思うから、
霊通者は結局、終わりが良くないのです。
霊通者は特に、独善的な気があるのです。

霊通した理由は、霊通していない人のためのスピーカーです。
だからこそ、その証が使命なのです。
それなのに、自分が通じたといって喜んでおりながら、
人を差別するようなことをすべきではないのです。

自分の悩み
神の直接干渉

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


私たちは深く考えずに横的に話してしまったりするのですが、
私たちが守られていくためにも、
しっかり報連相していくことは
大切だと思います。

そうしていけば、私たちは天の者ということで、
私たちの抱えている問題も、
神様が知ってくださることとなり、
采配してくださることができます。

私の「悩み」は、自分自身の悩みかもしれませんが、
捉えようによっては、公的な悩みである、
ということもいえるでしょう。

家庭の事情においても、
教会全体の事情においても、
それが、世界全体の問題を克服し、
解決するための事情である、
そのようにも捉えることができるのではないかと思います。

何よりも真の父母様が、
すべての問題を自分の問題として受け止め、
乗り越えてくださっています。

くよくよ悩むのではなく、
しっかり報告し、祈って、
為に生き、実践していけば、いつの間にか
自分の問題も克服することができる。。。

これは、大きな福音です。
伝道することがさらに楽しみになりました。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:49 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月08日

お父様と劉孝元先生、稲妻と閃光の出会い 《篠崎部長》



210408-1960s.jpg


篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」より、
劉孝元先生が、真のお父様と
原理に出会った証しです。

劉孝元先生の苦悩と探究の道

劉孝元先生は真のお父様と同じ定州(チョンヂュ)出身です。
そして京城帝国大学(ソウル大学の前身)医学部に
数学満点で入学しました。

この学校始まって以来の出来事に、
「定州に天才が現れた」と言われ、
「こんな田舎(いなか)の中学校でも
彼のように努力すれば京城帝国大学という
立派な大学に入ることができる」
という学校の教訓になったというのです。

しかし6年間の医学部をあと2年で修了という頃、
突然、脊椎(せきつい)カリエスにかかりました。

誇り高い、希望に満ちた青年であった劉孝元先生は、
希望と夢を遮られ、自殺まで考えたといいます。
しかし、信仰深いお母さんの涙の祈祷のゆえに、
それはできませんでした。

劉孝元先生は善と悪の問題に悩み、
聖書に真理があるのではないかと、
ラテン語を8カ月で習得してカトリック聖書を原本で読みました。

それでも真理を見つけることができず、慟哭(どうこく)し、
悲しみ嘆きながら生きたのです。
そして40歳(数え)を過ぎた1953年に「原理」に出会ったのです。


最初に入教したのは劉孝元先生の親戚である
梁允永(ヤンユニョン)先生の妹さんでした。

その人が「私の親戚にとても信仰深い者がいます。
彼は病床の身ですが、とても熱心に聖書研究をしているので
一度訪ねてください」と願い、
ある婦人と二人で劉孝元先生を訪ねました。

そして劉孝元先生の部屋に入るや否や祈り始めたのです。
劉孝元先生は、それまで人間的な同情は癪(しゃく)に障ると
思っていましたが、その祈りが終わった時に
こみ上げてくる思いにきまりが悪くなるほど泣いたのです。

そして劉孝元先生は、
「あなたたちは何か真理を持っているのではないですか?
話してくれませんか」と熱心に願いました。

しかし婦人はみ言をぽつぽつと話すだけなので理解できません。
興味を持った劉孝元先生が釜山(プサン)教会を訪ね、
「何か、その先生が書かれた本はないのですか?」
と尋ねると、釜山教会の信徒が大切そうに持ってきて
貸し与えたのが、真のお父様が釜山で書かれた『原理原本』でした。

『原理原本』は科学的な表現が多く、非常に難しい内容です。
普通の人なら深く理解するのは困難です。
しかし、劉孝元先生は一気に読んで感動し、
そのうれしさで『原理原本』を抱いて泣いたそうです。


劉孝元先生はその思いを真のお父様に手紙で伝えました。
それは、「一片丹心、私は
生涯あなたに付き従っていきます」という
切実な思いを込めた内容でした。

お父様はその手紙を読んで感動されたのですが、
同時に、今までつながったものの、
やがて離れていった食口(シック)たちのことを思い、
この人は神様と私に永遠に付いてくるだろうかと案じたのでした。
そのような深刻な思いで劉孝元先生と会われたのです。

しかし二人が会った時、
もうお互いを紹介し合う必要もなく、
すぐに原理講義が始まったのです。

篠崎 幸郎・著
(光言社・刊『氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第一章 原理のみ言があなたに届くまで
二、『原理講論』のできるまで
劉孝元先生の苦悩と探究の道


真のお父様と劉孝元先生の出会い。。。
このお二人の出会いがなかったら、
原理講論は存在していなかったかも知れない、
そう思うと本当に奇跡的であり、歴史に永遠に残る、
天宙的な出会いであったと思います。

お二人とも、お互いの出会いに感謝したことでしょう。
「すぐに原理講義が始まった」とありますけれど、
この日は、ほぼ丸一日お話をされた、と聞いています。

この証しを通して、
「絶対的な主体が立つと、
絶対相対が生まれる」という
お父様のみ言は、まさに真理である、と感じます。

『お父様と劉孝元先生、稲妻と閃光の出会い』
心から感謝いたします。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:00 | Comment(0) | 統一原理・統一思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月07日

メシヤの実験カップル、教会内からも多くの反対を越えて お父様曰く《大谷夫妻2》



190527.jpg


777双の大谷明史(あきふみ)・
よし子夫妻のお話の続きです。


明史さん:祝福のときに、真のお父様は、
「対照的な者同士を組み合わせた。
 先生は実験材料としていつも注目しているよ。
 大谷は本ばかり読んできたのだろう。
 一人でほうっておくと生活していくたくましさがないが、
 この女性は一人でどんな所でも生きていけるのだよ。
 女の中の女になるだろう。
 大谷は、この女を研究しなさい」
 とも、おっしゃったのです。

 真のお父様に注目していただき、
 このようなみ言を与えられたのは、
 思いがけないことであり、恵みでした。

 しかしその反面、真の父母様から
 注目されていることを身をもって感じさせられ、
 緊張感を覚えずにはいられませんでした。

よし子さん:マッチングのとき、私たちは初対面で、
 大谷がどんな人なのか全く知りませんでしたが、
 その後、周囲からの反対が始まりました。

 後に韓国の先生から聞いた話によれば、
 多くのリーダーが真の父母様のお部屋で、
 私たち夫婦の組み合わせに反対したというのです。

 真のお父様は、リーダーたちの言い分を全て聞かれた後、
「分かった。それでは、二人を分けて別々に祝福しよう。
 しかし、その二家庭に、
 永遠に責任を持たなければならない。
 おまえたちが責任を持てるのか?」
 とおっしゃったというのです。
 
 すると全員、黙ってしまいました。
 それで、お父様が決められた元のさやに納まったというのです。

 この話を聞いて、祝福は容易ではないなと思いました。
 私にサタンからの総攻撃が始まったのです。
 霊的に首を絞められるようなこともありました。

 あるときは、家で真のお父様のことを考えているとき、
 ある兄弟から電話が来ました。
 そして、「あんたみたいな人が、
 なぜ大谷さんと一緒になるのか?
 大谷さんがだめになってしまう」と言うのです。

 そのような中で、涙がかれるほどに泣き、
 悩み、もだえ苦んでいると、
 夢の中に真のお父様が出てこられました。

 そして、「苦労をかけたね」とおっしゃるのです。
 私が、「どうすればいいのか分かりません」
 と申し上げると、お父様は
「苦労を先に歩んだ者がいるよ」と言われたのです。

 私が「それはお母様ですね?」と言うと、
 お父様は「そうだ、お母様を研究しなさい」
 と教えてくださったのです。

 それからは、「私たちは一つの蕩減を
 勝利するように願われた家庭である」
 と受け止めていくようにしました。

 そうすると、全ては時が解決し、
 苦労をしただけ信仰も大きくなっていくように思われました。
 
 その後、韓国留学生の父母の一人として訪韓したとき、
 真のお父様から、「表情が柔らかくなったね」
 と言われました。

 私がけげんな顔をすると、お父様は、
「あんたの夫は物事を深く縦的に捉えていくが、
 あんたは右手にはたきを三本、
 左手にほうきを三本持って、
 村中を一周してこなければ何も手に付かないんだよ。
 だからふたりは合うところがないんだよ」
 とおっしゃったのです。

 このみ言でそれまでのわだかまりがとけて、
 ほっとしました。

明史さん:真のお父様は、私には
「男は女に手を上げてはいけない。
 だけど、おまえだけは殴ってもいい」
 とおっしゃいました(笑い)
 でも、そういわれると殴れないんですけどね。(笑い)

よし子さん:「ほかの人たちが相手を殴れば、引っかかる。
 でも、おまえたちは引っかからないよ」
 とおっしゃいましたね。



証しを読みながら、二つのことを感じました。

一つ目は、祝福結婚は、
あくまでも神様の「祝福」だけれども、
そこにいたるまでに道のり、
特に先輩家庭の方たちにおいては、
歴史的な蕩減のかかった祝福結婚である、ということ。

そして、もう一つは、未来の道を切り開くための、
希望の道しるべとしての祝福結婚だということです。

大谷家庭が勝利することが、
結婚の価値は、真の愛によって、
外的なものを克服することができる、ということを
世に知らせたかった、真のお父様である、
そのことを感じました。

そして何よりも
真のお母様が、女性として、
勝利の道を開かれたことが、
一番重要なことであったのだ、
改めて感じるのです。






にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)