80年前の今日、東京に
降り立った文鮮明先生は──
降り立った文鮮明先生は──
お父様のご入国80周年を記念する
「日臨節80周年記念大会」の速報です。
☆
3月28日、文鮮明総裁が
日本に初めて山口県下関からご入国された
1941年4月1日を記念する「日臨節80周年記念大会」が
山口県の会場で開催されました。
大会当日、方相逸・神日本大陸会長夫妻らが
文総裁が初来日された旧下関港付近が眺望できる
日和山公園にある崑崙丸沈没犠牲者の慰霊碑に立ち寄られ、
犠牲になられたかたがたに慰霊の祈りをささげました。
記念大会は新型コロナウイルス感染症対策のために
参加人数が制限された中で行われましたが、
駆け付けた有識者らが祝辞を述べ、
参加者と共に文総裁の日臨節80周年を祝賀しました。
方相逸大陸会長は講演で、自身の韓日祝福結婚の
体験を交えながら、力強く文総裁の業績を証ししました。
方会長は最後に
「山口の下関は聖地と同等の場所です」
と祝祷をささげ、参加者にとって
感慨深い日臨節80周年記念大会となりました。
統一運動情報
日臨節80周年〜方大陸会長が文鮮明総裁を力強く証しする
(blessed lifeより)
日臨節80周年〜方大陸会長が文鮮明総裁を力強く証しする
(blessed lifeより)
☆
日臨節の命名について
1941年04月01日(火)が
文青年の日本への初来日となり、
【降日節】と言われています
≪降日節≫
1941年04月01日(火)
文青年が日本留学の為に初めて来日され、
早稲田大学附属早稲田高等工学校に
入学されたことを祝う記念日です
2006年04年01日(土)
文先生が自らこの日を【降日節】から
【日臨節】として定められました
毎年、正月に聖地巡礼を企画されている井口先生が
お父様のみ言と合わせ、早稲田時代の
お父様の足跡を語られています。
☆
1941 年 4 月 1 日に文鮮明先生は、
「早稲田大学附属早稲田高等工学校」
留学のために来日されました。
2021 年はご来日 80 周年を迎えます。
1941 年4月から 43 年 10 月までの2年半を
文鮮明先生は早稲田・高田馬場の地を中心に過ごされました。
1965 年 10 月 8 日に、文鮮明先生は再来日された際、
高田馬場から歩いてほしい旨を次のように語られました.
「早稲田の高田馬場の道を、
先生は一日に2回ずつ歩いたよ、
よく歩いた・・・早稲田の戸塚町を
高田馬場から歩いてほしい。
そこにある角道、そこにある電信柱、
そういう君達の記憶馴れている所には、
先生の涙があることを思っても、
それは間違いないでしょう。
だから日本を早稲田から救おうか? ん?
だから日本を早稲田から救おうか?」
(1965 年 10 月 8 日 早稲田原研寮)
真のお父様は 1941年4月1日に
早稲田留学のために日本に来られ、
早稲田・高田馬場の地を中心に約3年を過ごされましたが、
この期間はサタンとの壮絶な戦いを勝利して越えられ、
戦後再臨主として公的人生を出発される
重要な準備期間となりました。
自叙伝88頁にあるように卒業直後の1943年10月頃
「・・・宇宙のあらゆる秘密が解かれました。
・・・イエス様に出会って9年目にして、
ようやく父の真の愛に目覚めた」
とあります。
特筆すべきは、再臨主として公的人生を歩み出す
基台を得たともいうべき、このあらゆる秘密を解いた1943年は
奇しくも真のお母様の御聖誕と同じ年に当たります。
☆
関釜連絡船で下関に降り立ったお父様は、
下関から急行列車に乗り、
22時間かけて東京に向かわれました。
ですから、80年前の今日、
高田馬場、早稲田の地に降り立ったのでした。
そして、内的には真理解明のため、
精誠の限りを尽くされたのです。
わずかな期間でありながら、
日本留学時代に重要な歩みをされたお父様。。。
心から感謝していきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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