2021年04月02日

昨日は日臨節 「そこにある角道、電信柱に先生の涙がある」 *日本留学80周年 

80年前の今日、東京に
降り立った文鮮明先生は──



210402-1941waseda.jpg


お父様のご入国80周年を記念する
「日臨節80周年記念大会」の速報です。


3月28日、文鮮明総裁が
日本に初めて山口県下関からご入国された
1941年4月1日を記念する「日臨節80周年記念大会」が
山口県の会場で開催されました。

大会当日、方相逸・神日本大陸会長夫妻らが
文総裁が初来日された旧下関港付近が眺望できる
日和山公園にある崑崙丸沈没犠牲者の慰霊碑に立ち寄られ、
犠牲になられたかたがたに慰霊の祈りをささげました。

記念大会は新型コロナウイルス感染症対策のために
参加人数が制限された中で行われましたが、
駆け付けた有識者らが祝辞を述べ、
参加者と共に文総裁の日臨節80周年を祝賀しました。

方相逸大陸会長は講演で、自身の韓日祝福結婚の
体験を交えながら、力強く文総裁の業績を証ししました。

方会長は最後に
「山口の下関は聖地と同等の場所です」
と祝祷をささげ、参加者にとって
感慨深い日臨節80周年記念大会となりました。



日臨節の命名について

1941年04月01日(火)が
文青年の日本への初来日となり、
【降日節】と言われています

≪降日節≫
1941年04月01日(火)
文青年が日本留学の為に初めて来日され、
早稲田大学附属早稲田高等工学校に
入学されたことを祝う記念日です

2006年04年01日(土)
文先生が自らこの日を【降日節】から
【日臨節】として定められました


毎年、正月に聖地巡礼を企画されている井口先生が
お父様のみ言と合わせ、早稲田時代の
お父様の足跡を語られています。


1941 年 4 月 1 日に文鮮明先生は、
「早稲田大学附属早稲田高等工学校」
留学のために来日されました。

2021 年はご来日 80 周年を迎えます。
1941 年4月から 43 年 10 月までの2年半を
文鮮明先生は早稲田・高田馬場の地を中心に過ごされました。

1965 年 10 月 8 日に、文鮮明先生は再来日された際、
高田馬場から歩いてほしい旨を次のように語られました.

「早稲田の高田馬場の道を、
 先生は一日に2回ずつ歩いたよ、
 よく歩いた・・・早稲田の戸塚町を
 高田馬場から歩いてほしい。

 そこにある角道、そこにある電信柱、
 そういう君達の記憶馴れている所には、
 先生の涙があることを思っても、
 それは間違いないでしょう。

 だから日本を早稲田から救おうか? ん?
 だから日本を早稲田から救おうか?」


(1965 年 10 月 8 日 早稲田原研寮)


真のお父様は 1941年4月1日に
早稲田留学のために日本に来られ、
早稲田・高田馬場の地を中心に約3年を過ごされましたが、
この期間はサタンとの壮絶な戦いを勝利して越えられ、
戦後再臨主として公的人生を出発される
重要な準備期間となりました。

自叙伝88頁にあるように卒業直後の1943年10月頃

「・・・宇宙のあらゆる秘密が解かれました。
 ・・・イエス様に出会って9年目にして、
 ようやく父の真の愛に目覚めた」


とあります。

特筆すべきは、再臨主として公的人生を歩み出す
基台を得たともいうべき、このあらゆる秘密を解いた1943年は
奇しくも真のお母様の御聖誕と同じ年に当たります。




関釜連絡船で下関に降り立ったお父様は、
下関から急行列車に乗り、
22時間かけて東京に向かわれました。

ですから、80年前の今日、
高田馬場、早稲田の地に降り立ったのでした。

そして、内的には真理解明のため、
精誠の限りを尽くされたのです。

わずかな期間でありながら、
日本留学時代に重要な歩みをされたお父様。。。
心から感謝していきたいと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 07:33 | Comment(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする