渡邊教会長の説教、
「神に名を覚えられる者に」続編です。
☆
私が高校生の時に清平21修に出たんですね。
日本の二世たち(小学5年生から高校3年生くらいまで)が
参加した初めての修錬会でした。
今みたいな立派な建物じゃない、
お風呂も何度入ったでしょうか。
そんな修練会でしたが、私はその時、
進路に迷っていました。
そのころは、公職者の道に行きなさいと
お父様がめちゃくちゃ言っておられた時期でした。
でも、反発もあったんです。
その修錬会で、大母様が語られたのが
「日本の方々は本当に苦労して来られている。
あなたたちを見ると、あなたたちの父母がどれだけ苦労して
また、どれだけ精誠を尽くしてあなたたちを
育てたかということがよくわかります」と、
ゆっくり話されたんですね。
そして、お母様のエピソードをひとつお話しされたのが
とても心に残っています。
どういう話だったかというと、
南米のある国に父母様が行かれました。
そこには日本の宣教師たちがいました。
その際に、ちょうど日本の家族から
日本のお菓子が送られてきていたんです。
だから父母様に食べていただこうと思って、
見繕ってお出ししました。
そしたらお母様がそのお菓子を見て
「このお菓子はこの辺で売っているのか」と聞かれました。
「私の家族が送ってくれたものです。
おいしいので召し上がってください」
と宣教師の姉妹は、お答えしました。
するとお母様がそのお皿を下げられて、
「これはあなたの家族があなたに対して贈ったものだから
私は食べられません」という風に言われたのです。
☆
私は、すごくそのみ言を聞きながら、
涙が止まらなかったんです。
そのころ私は、教会に対しても複雑な思いを持っていて、
半分は、二世としての誇りを持ちつつ、
半分はなんで二世として生まれたのかという
憤りのようなものを抱えていたような時期でした。
親たちが心を尽くして人生を捧げてやってきたことはわかる。
でも、子供である私達にはあまりに過酷であり、
それが周りの生活と比べても、お金がないのは
まぁ仕方ないですけど、やっちゃいけない事とか、
部活とか、みんな頑張っていることを
時間が取れなかったりとか・・・
いろいろと文句言いたいことたくさんあったんですね。
だけれども私の中には、やっぱり神様、父母様って思いは
ずっとあったので、一概に悪いとか嫌だとかも言わず
モヤモヤしながら生きてきたわけですよ。
自分の悩みとか痛みとか苦しみとか、
こんなのは親たちも分かってないし、
誰もわかってないんだろうという思いがあったのです。
二世同士で慰めあったり文句言ったりして
いるのが一番楽しかったんですよ。
☆
でもその際に(み言を聞いて)、父母様がわかってくれているなら
それでいいなっていう思いになったんです。
それで祈っている中で、『じゃあ鮮文に行かなきゃな』
という思いになりました。
全部わかりながらも、
それでも親たちを、南米の、日本からすると
地球の反対に送らなければならなかった
天の思いがあって、そしてそれに応えた父母たちがいて・・・
家族の苦しみとか痛みも分かりながら
そのお菓子のひとつを通して、これはあなたの家族が
あなたの事を思って贈ったものなんだから私は食べない。
痛みを分かってるよ、悲しみをわかってるよと、
ある意味では、父母様がその方々に対して
申し訳ないという思いを持ちながら接せられている
という事が、すごく感じられたのです。
☆
ここで何が言いたいのかというと、
別に私の悩んでたエピソードの話ということでなく、
父母様は私たちのことを覚えておられる、
もちろん一つ一つ名前の端々まで覚えていないかもしれませんが、
天に対して尽くしたものとか、その精誠というのは
私たちがたとえそれに対してネガティブな感情を
抱いてしまっているとしても、尽くしたもの
一つ一つは、神様は、父母様は、覚えておられるのです。
そうして、今私たちに望まれている天の父母様である
ということを私は感じております。
その上で、いま天寶ということを願われながら
切実に歩まれている父母様がいらっしゃることを
私たちは忘れてはいけないなと思っております。
☆
先日、ある二世が聖和したという話が
二世牧会者のラインで流れてきました。
その時、自分自身の牧会者としての姿勢を
反省させられました。
何のためにこれをやっているんだろうかっていう
根本を本当に考えさせられたんですね。
お父様が15歳の頃に、同じ年齢の少年が
人生の苦悩の故に自殺をしたという
新聞の記事を見た話がありますよね。
まだメシアとしてのお告げを受けてない時に
三日三晩床を濡らしたと言うエピソードを私たちは聞いています。
すごくを反省させられたのは、そういうことをやっぱり忘れている。
外的なことに追われていたりとか
全く関係のないところで一喜一憂しているような
自分自身がいることにすごく自分に失望する思いになりました。
自分と同じ二世の立場でも、人生にこれだけ
苦しみながら生きている兄弟がいる、
弟や妹たちがいるんだなということに対しての、
責任感ですかね、そういうものをもう1回思わされましたし、
神様であれば父母様であれば
そういう一人の命に対してどれほどに
心を尽くされているだろうか。
反省をすごくさせられました
☆
今日は「神に名を覚えられるものに」
というタイトルで、説教をさせていただきました。
真(しん)の意味で神様が私たちを忘れられない
その一人として覚えられるということは
神様が悲しんでいる時に父母様が悲しんでいるときに
自分は笑っているなんていうことは
本当はあってはいけないはずですし、
父母様が喜ばれているその時には私も一緒に喜びたい
それが本当の家族であるというふうに思うんですね。
今の私たちの歩み自体が神様は忘れることがないと、
私たちが天のために尽くしているその歩みというものを
神様は絶対に覚えておられる。
でもさらに私たちが神様の記憶に残る自分自身になるために、
私たちが本当の意味で自分の人生を肯定し、
自分たちの生き方というものに正しさと正義を覚えるためには、
神様と同じ心情を持ってこの世界を見つめ、隣人を見つめ
自分自身を見つめられる自分自身になっていくことが
大切であるということを皆様と分かち合っていきたい
と思ってこの説教を共有いたしました。
聖句の中にあった、神様がその名を神と呼ばれても、
恥とはしなかったという義人たちの姿、
その生き方をまた私たちはより教訓として学んでいく必要がありますし、
ましてや神様の記憶に一番刻まれる存在としておられるのは
父母様でいらっしゃいます。
父母様をより憧れ、
父母様が持っておられる愛を自分自身の愛とすること
その父母様の真の喜怒哀楽を自分自身に
少しでも重ね合わせられる自分になるように、
歩み出していって欲しいと思います。
(文責:ten1ko2)
「神に名を覚えられる者に」
松戸家庭教会
渡辺一喜教会長
日曜礼拝説教より
松戸家庭教会
渡辺一喜教会長
日曜礼拝説教より
☆
南米の宣教師に対されたお母様の証し、
礼拝に参加していた婦人たちは、
みんな涙を流していました。
この道は、簡単な道ではありません。
時には、「この苦労は、誰もわかってくれないのではないか」
それは、二世たちもそうかもしれませんが、
一世である私たちも同じような気持ちを
持つことがあるのではないでしょうか。
すべてを捧げて、み旨を歩んできた、
周りの人たちは理解してくれない、
世間からの目も厳しいものがあった。。。
しかし、そのことを
神様、父母様はご存じである、というのです。
ある面、周りがどう思ったとしても、
そのことさえ、事実であるとすれば、
それ以上の誇りと嬉しさはないのだと思います。
神様、父母様を常に見つめること、
そのことにぶれることのない、
私自身でありたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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