篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」より、
劉孝元先生が、真のお父様と
原理に出会った証しです。
☆
劉孝元先生の苦悩と探究の道
劉孝元先生は真のお父様と同じ定州(チョンヂュ)出身です。
そして京城帝国大学(ソウル大学の前身)医学部に
数学満点で入学しました。
この学校始まって以来の出来事に、
「定州に天才が現れた」と言われ、
「こんな田舎(いなか)の中学校でも
彼のように努力すれば京城帝国大学という
立派な大学に入ることができる」
という学校の教訓になったというのです。
しかし6年間の医学部をあと2年で修了という頃、
突然、脊椎(せきつい)カリエスにかかりました。
誇り高い、希望に満ちた青年であった劉孝元先生は、
希望と夢を遮られ、自殺まで考えたといいます。
しかし、信仰深いお母さんの涙の祈祷のゆえに、
それはできませんでした。
劉孝元先生は善と悪の問題に悩み、
聖書に真理があるのではないかと、
ラテン語を8カ月で習得してカトリック聖書を原本で読みました。
それでも真理を見つけることができず、慟哭(どうこく)し、
悲しみ嘆きながら生きたのです。
そして40歳(数え)を過ぎた1953年に「原理」に出会ったのです。
☆
最初に入教したのは劉孝元先生の親戚である
梁允永(ヤンユニョン)先生の妹さんでした。
その人が「私の親戚にとても信仰深い者がいます。
彼は病床の身ですが、とても熱心に聖書研究をしているので
一度訪ねてください」と願い、
ある婦人と二人で劉孝元先生を訪ねました。
そして劉孝元先生の部屋に入るや否や祈り始めたのです。
劉孝元先生は、それまで人間的な同情は癪(しゃく)に障ると
思っていましたが、その祈りが終わった時に
こみ上げてくる思いにきまりが悪くなるほど泣いたのです。
そして劉孝元先生は、
「あなたたちは何か真理を持っているのではないですか?
話してくれませんか」と熱心に願いました。
しかし婦人はみ言をぽつぽつと話すだけなので理解できません。
興味を持った劉孝元先生が釜山(プサン)教会を訪ね、
「何か、その先生が書かれた本はないのですか?」
と尋ねると、釜山教会の信徒が大切そうに持ってきて
貸し与えたのが、真のお父様が釜山で書かれた『原理原本』でした。
『原理原本』は科学的な表現が多く、非常に難しい内容です。
普通の人なら深く理解するのは困難です。
しかし、劉孝元先生は一気に読んで感動し、
そのうれしさで『原理原本』を抱いて泣いたそうです。
☆
劉孝元先生はその思いを真のお父様に手紙で伝えました。
それは、「一片丹心、私は
生涯あなたに付き従っていきます」という
切実な思いを込めた内容でした。
お父様はその手紙を読んで感動されたのですが、
同時に、今までつながったものの、
やがて離れていった食口(シック)たちのことを思い、
この人は神様と私に永遠に付いてくるだろうかと案じたのでした。
そのような深刻な思いで劉孝元先生と会われたのです。
しかし二人が会った時、
もうお互いを紹介し合う必要もなく、
すぐに原理講義が始まったのです。
篠崎 幸郎・著
(光言社・刊『氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第一章 原理のみ言があなたに届くまで
二、『原理講論』のできるまで
劉孝元先生の苦悩と探究の道
(光言社・刊『氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第一章 原理のみ言があなたに届くまで
二、『原理講論』のできるまで
劉孝元先生の苦悩と探究の道
☆
真のお父様と劉孝元先生の出会い。。。
このお二人の出会いがなかったら、
原理講論は存在していなかったかも知れない、
そう思うと本当に奇跡的であり、歴史に永遠に残る、
天宙的な出会いであったと思います。
お二人とも、お互いの出会いに感謝したことでしょう。
「すぐに原理講義が始まった」とありますけれど、
この日は、ほぼ丸一日お話をされた、と聞いています。
この証しを通して、
「絶対的な主体が立つと、
絶対相対が生まれる」という
お父様のみ言は、まさに真理である、と感じます。
『お父様と劉孝元先生、稲妻と閃光の出会い』
心から感謝いたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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