2021年04月10日

私たちに必要なのは、切実で砕かれた心だった 本当の悔い改めに至るまで 《奈田壽美子先生》



210410-TheWoman-of-Canaan.jpg


奈田寿美子先生の「父母と共なる生活」 
『悔い改め』最後の内容になります。

四 悔い改め
(4)罪との決別

このように指導者は、信仰を持ち始めた人が罪と決別して、
自分自身で善いことも悪いことも公開できるように、
導いてあげなければなりません。

そして、そこで二度と再び罪の世界には戻りたくない、
生命を懸けても戻らないという決意をするようになるのです。

 
(5)救いの切望

そこで初めて、救いを切望するようになります。

「主よ、わたしはあなたに寄り頼む。
 とこしえにわたしをはずかしめないでください。
 あなたの義をもってわたしを助け、
 わたしを救い出してください。

 あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
 わたしのためにのがれの岩となり、
 わたしを救う堅固な城となってください。
 あなたはわが岩、わが城だからです。

 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、
 不義、残忍な人の支配から、
 わたしを救い出してください。

 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの
 わたしの望み、わたしの頼みです。
 わたしは生まれるときからあなたに寄り頼みました。

 あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。
 わたしは常にあなたをほめたたえます」
(詩篇七一篇1〜16節)


ここでよく引き合いに出されるのが、
マタイによる福音書一五章22〜28節のカナンの女のことです。

イエス様が弟子たちと一緒に歩いておられる時に、
カナンの女が悪霊に取りつかれた自分の娘を
何とか救ってほしいと、取りすがってくるのです。

このカナンの女は異邦人だったので、
イエス様は相手にもされませんでした。
弟子たちも「追い払ってください」と言うのです。

イエス様は、「子供たちのパンを取って
小犬に投げてやるのは、よろしくない」
すなわち、お前に与えるパンはないと言われました。

すると、カナンの女は、
「主よ、お言葉どおりです」
と、いったんイエス様の言葉を受け入れます。

これは足げにされたのも同然のことですが、
だからといって、「こんなに切望する自分なのに……」
と、ふてくされてしまったりしません。

そしてさらに、
「でも、小犬もその主人の食卓から落ちる
パンくずは、いただきます」
と、観点を変えてさらに願い出ます。

そこでイエス様は、
「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」
と言って、その願いをかなえておあげになるのです。

このように、神の言われたことをいったん受け入れて、
別の角度からさらに救いを切望するという
柔軟で熱意のある態度が、
この段階においては非常に重要なのです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
四 悔い改め


カナンの女の話。
これは皆様もご存じかと思います。
そして、彼女の信仰心、イエス様を求める切実な思い、
私たちが学ぶべき姿勢なのではないか、と思います。

私のクリスチャンの知人が、
よくこのように言われます。
「私は、家庭連合の食口である。
祝福を受けた者である。
原罪が清算されている。
そういう上から目線で
ほかの人たちを見ているのではないか」

心のどこかに、「そうではない」
と言い切れない、何かしらの
優越感があることを否定することができません。

そういう意味でも、カナンの女のような、
砕かれた心、謙虚な思いをもち
熱く切実に天を求め、さらに具体的に
実践していきたいと思うのです。






にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
<
posted by ten1ko2 at 07:54 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする