奈田寿美子先生の「父母と共なる生活」
『悔い改め』最後の内容になります。
☆
四 悔い改め
(4)罪との決別
(4)罪との決別
このように指導者は、信仰を持ち始めた人が罪と決別して、
自分自身で善いことも悪いことも公開できるように、
導いてあげなければなりません。
そして、そこで二度と再び罪の世界には戻りたくない、
生命を懸けても戻らないという決意をするようになるのです。
☆
(5)救いの切望
そこで初めて、救いを切望するようになります。
「主よ、わたしはあなたに寄り頼む。
とこしえにわたしをはずかしめないでください。
あなたの義をもってわたしを助け、
わたしを救い出してください。
あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
わたしのためにのがれの岩となり、
わたしを救う堅固な城となってください。
あなたはわが岩、わが城だからです。
わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、
不義、残忍な人の支配から、
わたしを救い出してください。
主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの
わたしの望み、わたしの頼みです。
わたしは生まれるときからあなたに寄り頼みました。
あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。
わたしは常にあなたをほめたたえます」(詩篇七一篇1〜16節)
☆
ここでよく引き合いに出されるのが、
マタイによる福音書一五章22〜28節のカナンの女のことです。
イエス様が弟子たちと一緒に歩いておられる時に、
カナンの女が悪霊に取りつかれた自分の娘を
何とか救ってほしいと、取りすがってくるのです。
このカナンの女は異邦人だったので、
イエス様は相手にもされませんでした。
弟子たちも「追い払ってください」と言うのです。
イエス様は、「子供たちのパンを取って
小犬に投げてやるのは、よろしくない」
すなわち、お前に与えるパンはないと言われました。
すると、カナンの女は、
「主よ、お言葉どおりです」
と、いったんイエス様の言葉を受け入れます。
これは足げにされたのも同然のことですが、
だからといって、「こんなに切望する自分なのに……」
と、ふてくされてしまったりしません。
そしてさらに、
「でも、小犬もその主人の食卓から落ちる
パンくずは、いただきます」
と、観点を変えてさらに願い出ます。
そこでイエス様は、
「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」
と言って、その願いをかなえておあげになるのです。
このように、神の言われたことをいったん受け入れて、
別の角度からさらに救いを切望するという
柔軟で熱意のある態度が、
この段階においては非常に重要なのです。
奈田壽美子
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
☆
カナンの女の話。
これは皆様もご存じかと思います。
そして、彼女の信仰心、イエス様を求める切実な思い、
私たちが学ぶべき姿勢なのではないか、と思います。
私のクリスチャンの知人が、
よくこのように言われます。
「私は、家庭連合の食口である。
祝福を受けた者である。
原罪が清算されている。
そういう上から目線で
ほかの人たちを見ているのではないか」
心のどこかに、「そうではない」
と言い切れない、何かしらの
優越感があることを否定することができません。
そういう意味でも、カナンの女のような、
砕かれた心、謙虚な思いをもち
熱く切実に天を求め、さらに具体的に
実践していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)<
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