李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「霊的枯渇」です。
☆
信仰生活において、初めは喜んでやるのだけれど、
そのあとの霊的な発展ができないのには、
二つの問題があるのです。
一つは、中心の問題です。
例えば、教会長が本来の主体者としての心配をしないで、
仕事の結果ばかりを心配するようになる場合です。
仕事のために、人の心を犯す時があるのです。
結局、出発の時に主体者と結んだ情的な関係が
長続きしない時に、その人の信仰が下がっていくのです。
教会長と情的に結んだ基台が維持できれば、
五十名くらいは維持できるのです。
五十名以上増えない理由は、情的基盤が広くならないからです。
情というものは、木でいえば根です。
見えないけれども、根が広いほど外的に茂っていくのです。
私の経験からすると、教会長である自分自身と
同じくらいの信仰の情的基準を結んで交わる兄弟を
三名つくれば、三十名は必ず増えるのです。
十二名くらい情的に結べば、百二十名くらいは増えるのです。
時間がたてば、信者は増えるけれども、
情的に結ばないと、三十名あるいは五十名以上には増えません。
いったん集まった人たちが、次々に落ちてしまうのです。
そして霊的に全部が枯れそうになり、
教会長自身も、教会に来る人を見てもうれしくもない、
「ああ来たか」と言うだけになってしまう。
最初と全く違ってくるのです。
それが危ないのです。
☆
もう一つの原因は、その人が
蕩減条件を立てていないからです。
以前から自分が神に対していた心構えが、
いつまでたっても変わらないとすれば、
信仰的な発展はできません。
私たちはいずれかの面で、常に条件を立てて
発展しなくてはならないにもかかわらず、
長くこの道を歩むと、
習慣的に信仰する人になってしまうのです。
それを教会長が見て、その人は自分から
「私はこのまま生活を繰り返してはいけないと
思うのだけれど」と心配して、
自分が条件を立てなくてはならないことを
我知らず口にするのです。
それを、その人より先立って蕩減条件を立てつつ
歩んできた人が聞けば、
その人が何をしなくてはならないかということが
すぐ分かるのです。
その本人も、やはり分かるのです。
☆
初め教会に入る時は、蕩減条件を立てて入るのです。
例えば、献身したという条件、そして、
献身したのち一カ月か七カ月か、ある期間が過ぎると、
献身した当時と同じ心ではないのです。
下がっていくのです。
なぜ下がるかというと、その人が献身した時は、
父母も家庭も職場も、全部捨てて来たという条件で、
ある期間過ごしてきたのですが、
今度は、すべてを捨てて何をしに来たのか、
すべてを捨てた目的をなしていくことを
条件としていかなくてはならないのです。
だから、何を勝利し、どういう実績を上げたか
ということが条件となり、それを天に報告する、
それができないと信仰が下がっていくのです。
1.牧会
霊的枯渇
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
霊的枯渇
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
一つ目は、「中心の問題」とありますが、
アベルが問題であるから、
自分が関係ない、ということではなく、
私自身が神氏族メシヤの立場であるので、
アベルであり、「中心」である
と、捉えて行った方がいいように思います。
外的な実績を中心とするのではなく、
心情を中心としていくことを
ヨハネ先生を通して、改めて正されます。
最初に3つの問題があると言われていますが、
ここを読む限り、
2つの問題しか書かれていないようです。
あるいは、「一つになること」
というのが、二つめになるのかもしれません。
また、もう一つは、「蕩減条件を立てる」ということ。
これは、とても大きいと思います。
み旨にきたときは、純粋に天を求めていたけれど、
信仰生活がマンネリ化してしまうと、
条件生活も曖昧になってしまいます。
「天寶修行」と言われる内容がありますし、
最近は、「○○のための孝情奉献礼式」ということで、
霊肉合同作戦で、天に精誠を捧げる歩みも、
多くの教会で進められていると思います。
そういったことも重点に置きながら、
霊的枯渇にならないよう、
ウキウキワクワクをなくさずに
歩んでいきたいですね。
み旨を、ただ仕事をするように、
外的にだけしたり、惰性でやってしまうのではなく
常に、精誠を立てつつも、謙虚に
感謝していくことが大切であると思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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