2021年05月19日

心が枯れてきてしまったら・・・ 「霊的枯渇」 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「霊的枯渇」です。


信仰生活において、初めは喜んでやるのだけれど、
そのあとの霊的な発展ができないのには、
二つの問題があるのです。

一つは、中心の問題です。

例えば、教会長が本来の主体者としての心配をしないで、
仕事の結果ばかりを心配するようになる場合です。
仕事のために、人の心を犯す時があるのです。

結局、出発の時に主体者と結んだ情的な関係が
長続きしない時に、その人の信仰が下がっていくのです。

教会長と情的に結んだ基台が維持できれば、
五十名くらいは維持できるのです。
五十名以上増えない理由は、情的基盤が広くならないからです。

情というものは、木でいえば根です。
見えないけれども、根が広いほど外的に茂っていくのです。

私の経験からすると、教会長である自分自身と
同じくらいの信仰の情的基準を結んで交わる兄弟を
三名つくれば、三十名は必ず増えるのです。
十二名くらい情的に結べば、百二十名くらいは増えるのです。

時間がたてば、信者は増えるけれども、
情的に結ばないと、三十名あるいは五十名以上には増えません。
いったん集まった人たちが、次々に落ちてしまうのです。

そして霊的に全部が枯れそうになり、
教会長自身も、教会に来る人を見てもうれしくもない、
「ああ来たか」と言うだけになってしまう。

最初と全く違ってくるのです。
それが危ないのです。

 
もう一つの原因は、その人が
蕩減条件を立てていないからです。

以前から自分が神に対していた心構えが、
いつまでたっても変わらないとすれば、
信仰的な発展はできません。

私たちはいずれかの面で、常に条件を立てて
発展しなくてはならないにもかかわらず、
長くこの道を歩むと、
習慣的に信仰する人になってしまうのです。

それを教会長が見て、その人は自分から
「私はこのまま生活を繰り返してはいけないと
思うのだけれど」と心配して、
自分が条件を立てなくてはならないことを
我知らず口にするのです。

それを、その人より先立って蕩減条件を立てつつ
歩んできた人が聞けば、
その人が何をしなくてはならないかということが
すぐ分かるのです。
その本人も、やはり分かるのです。


初め教会に入る時は、蕩減条件を立てて入るのです。
例えば、献身したという条件、そして、
献身したのち一カ月か七カ月か、ある期間が過ぎると、
献身した当時と同じ心ではないのです。
下がっていくのです。

なぜ下がるかというと、その人が献身した時は、
父母も家庭も職場も、全部捨てて来たという条件で、
ある期間過ごしてきたのですが、
今度は、すべてを捨てて何をしに来たのか、
すべてを捨てた目的をなしていくことを
条件としていかなくてはならないのです。

だから、何を勝利し、どういう実績を上げたか
ということが条件となり、それを天に報告する、
それができないと信仰が下がっていくのです。

1.牧会
霊的枯渇

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


一つ目は、「中心の問題」とありますが、
アベルが問題であるから、
自分が関係ない、ということではなく、
私自身が神氏族メシヤの立場であるので、
アベルであり、「中心」である
と、捉えて行った方がいいように思います。

外的な実績を中心とするのではなく、
心情を中心としていくことを
ヨハネ先生を通して、改めて正されます。

最初に3つの問題があると言われていますが、
ここを読む限り、
2つの問題しか書かれていないようです。

あるいは、「一つになること」
というのが、二つめになるのかもしれません。

また、もう一つは、「蕩減条件を立てる」ということ。
これは、とても大きいと思います。

み旨にきたときは、純粋に天を求めていたけれど、
信仰生活がマンネリ化してしまうと、
条件生活も曖昧になってしまいます。

「天寶修行」と言われる内容がありますし、
最近は、「○○のための孝情奉献礼式」ということで、
霊肉合同作戦で、天に精誠を捧げる歩みも、
多くの教会で進められていると思います。

そういったことも重点に置きながら、
霊的枯渇にならないよう、
ウキウキワクワクをなくさずに
歩んでいきたいですね。

み旨を、ただ仕事をするように、
外的にだけしたり、惰性でやってしまうのではなく
常に、精誠を立てつつも、謙虚に
感謝していくことが大切であると思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:07 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする