2021年06月30日

父の奇跡的な快復の噂を聞き、相談者が続出、3年後には家が教会に 《北谷先生》



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北谷先生の「死んだらわかるけど、それでは遅い」

北谷先生がまだ小学校に上がる前、お父さんが交通事故に遭い、
とても助からないような状況の中、
突然、お母さんが霊通しました。

「夫が通常の生活ができるようにしてあげる、
そのためには、保険金を受け取らないように」

そんな霊界からのメッセージを受けて、
お母さんはその如く実践していかれ、
お父さんは、奇跡的に快復されたのでした。

それでは、以前に紹介したところの続き
『三年後、家が教会に』です。


父は百日近く入院した後に、退院しました。
自分のことは自分でできるようになるのだったら、
霊界から引き戻すと言われていましたが、
実際にそのようになっていったのです。

切断するしかないと言われていた左手でしたが、
その手に茶碗を置いてご飯を一人で食べられるようになりました。

右手は無事でしたから、車の運転もできるようになりました。
足は少し引きずりはしますが、歩けるようになり、
後には小走りができるまでに快復しました。

ただ、皮膚の感覚だけは十分戻らなかったようで、
行火(あんか・布団に入れて直接手足に当てて暖をとる暖房器具)
火傷をしても気づかないほどでした。

医者から死ぬと言われていた父が奇跡的に助かった、
母を通して神様、が示してくださることは、
そのとおりに実現されるといったうわさが広まりました。

それを聞きつけた人が、恩恵にあずかろうと、
続々と母を訪ねて来るようになりました。

私の家は小さな商売をしていたのですが、
母は、父の命を助けてもらった恩返しをしたい一心で、
喜んで人々の相談に乗っていました。

「自分を見てほしい」、「どうしたらよいか教えてほしい」
という人たちに、母は、霊界と交信しながら、
解決策を提示していったのです。
また求められれば、夜でも嫌な顔一つせず出掛けて行きました。
このようにして、 人助けの生活が始まったのです。

三年ほど経った頃、’神様’が「家を教会にしなさい」
と言ってきました。
それで、大きな家ではありませんでしたが、教会にしたのです。
その時、私は小学生になっていました。

「死んだらわかるけど、それでは遅い」(光言社刊)


お母さんが霊通して、神様が予知のごとく、
様々なことを教えてくれ、
お父さんも神様の言うとおりに快復していきました。

神道においての「神様」は、「天使である」と、
北谷先生は語られています。
さらには、お母さんに働いている「天使」は、
神道では、高い位の「神様」、
すなわち、高級霊だと思います。

私たちにも、絶対善霊がともにいることを思うと、
もっと霊的に敏感になれば、
声を聴くことができるし、
たとえそうでなかったとしても、
様々なことを教えてくれるはずだと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 07:37 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月29日

夫と趣味が合わない、その悩みに良心の答えは 《自己牧会プログラムQ&A》



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お母様の近況(ハワイ コナ農園にて)


今日は、自己牧会プログラムに関する
Q&Aを紹介します。


  真の父母様が、「第二の神様」であると言われた“良心”。
  自分の心の中にいる神様―良心―と
  対話(瞑想、祈り)することによって、
  本然の自分を取り戻していくことができます。

  今回は、「自己牧会プログラム」事務局に寄せられた
  お便りと、それに対する
  同事務局からのコメントをご紹介しましょう!



 夫と全く趣味が合わず、悩んでいます。

夫はゴルフが大好きで、暇さえあれば
テレビでゴルフを見ています。

私はドラマや映画が好きで、
ゴルフには全く興味がないので、
別室でふて寝してしまいます。

「好きな番組を見せてあげればいいじゃないか」
とも思うのですが、我(が)が強いからか、
自分の面白くない気持ちに負けて、
ついつい不機嫌になってしまうのです。

私たちには子供がいないので、
夫婦で一緒に楽しみたいと思うのですが、
それができません。

(女性 50代)

お子さんがいらっしゃらないこともあり、
夫婦で楽しみを共有したいという気持ちを
より強くお持ちなのでしょうね。

ご自分のことを「我が強い」と言われますが、
誰しも「我」は強いものです。

でも、そういうふうに「我」を通そうとする自分を、
一度、客観的に見詰めてみてはどうでしょうか。

その上で、そんな自分は「本当の自分ではありません」
と唱えながら、「一緒の趣味を持たないといけない、
喜びを共有しないといけない」
という思いを手放してみてください。

そして、「趣味が合わなくても大丈夫、
趣味が違ってもいいんだ」
と受け入れる努力をしてみましょう。

また、趣味が違っても、一緒に喜べること、
感謝できることはあるはずです。
探してみてください。

例えば、
二人が健康で生活できている。
一緒にご飯を食べる人がいる。
一緒に住む家がある。

まずは、こんな当たり前のことに感謝してみるのです。

すると、ご主人がゴルフ観戦を楽しんでいることを、
わがことのように喜べるようになるはずです。

そうなれば、たとえご自分はゴルフに関心がなくても、
一緒の部屋にいるだけで
うれしく感じられるのではないでしょうか。

ぜひ、そういうところから始めてみてください。

私の心の中にいる神様 75
「お便り&コメント」シリーズF
夫と全く趣味が合いません


ご質問をされたご夫婦と同じように、
「趣味が合わない」というカップルは、
意外と多いような気がします。

私たち夫婦のことは、
何度も書いていますので、省略しますが、
愛する家族が関心を持っていること、
さらには、趣味に対しては、
合う、合わないは別にして、
興味をもっていくことが大事だと思います。

ちなみに、娘は、オーディション番組が大好きで、
自分の好きな歌手(推し、というらしいです)が
生き残るために家族のスマホから投票し、
バイト先の店長にも、推しの投票をお願いする・・・

その熱狂ぶりにあきれるほどですが、
最近、妻も影響されて、
その歌手の数年前の映像を見たりして、
娘との会話に花が咲いています(笑)

愛する心情をもつことが
大事なんだな、と感じます。





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posted by ten1ko2 at 08:06 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月28日

「子女が愛をもってくる」  子女を通して私たちも神も貴く輝く 《蝶野部長》



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蝶野知徳・家庭教育部長の「孝情を育む」より
題目に目が留まったので紹介します。
『子女が愛をもってくる」です。

子女が愛を持ってくる

子女を授かることの意味は、愛のためです。
愛するために授かったのであり、
愛を体験するために与えられました。
つまり、子女は父母に愛を持ってきてくれた存在なのです。

子女の行動や性質に焦点を合わせ、一喜一憂する前に、
神様が与えてくださった子女の
存在そのものの価値に対する感謝の心が必要です。

その心を神様に捧げながら子女を見なければなりません。
それがいかなるときも、
父母の愛を支えてくれるものとなるからです。

愛の本質

子女は、愛という価値を通して見たときに、
その存在の貴さを発見できるようになっています。

「相手の性質に左右されない」という心情が、愛の本質です。
具体的には、欠点のように見えることや、
抱えている問題も全て超えて、その人を
「愛おしい」と感じられる心が与えられたとすれば、
それは愛の本質に触れていることになります。

障がいを持つ子女

ある父母は、生まれた子女がダウン症であることを伝えられた時、
絶望と悲しみの中で苦しみました。

しかし自分たち父母が愛の責任を持って育てる以外に
道がないことを受け入れました。

その子の未来が見えないと感じる中でも、
一つ一つ希望や願いを持って接し、
それを積み重ねていくうちに、
純粋な笑顔を無償で振りまくわが子に、
表現できない愛おしさが湧いてきたといいます。

障がいを持って生まれた子女を授かったとしても、
それは愛し難いものを愛するということが
父母のテーマとして願われているのではありません。

「“その子女の存在、丸ごとを愛する喜び”を
体験してしまうこと」にあるのです。

「愛の体験」をしたということは、
それが「喜び」になっているということです。
つまり、この一見、不自由な状態にある子女から
「喜びが与えられている」ということを発見したのです。

愛によってこそ貴い存在に

これらの高度な愛の喜びの基準は、
この親から生まれたものではありません。
明らかに子女が持ってきてくれたものなのです。
この愛の立場に至れば、子女に感謝が尽きないのです。

この愛の喜びを体験した父母も貴くなります。
そして、この子女をこの親に担当させながら、
それを抱えておられた神様も貴くなるのです。

私たちは、全てを貴い存在として輝かせるために、愛するのです。
愛によってしか、全ての存在は貴くならないからです。

孝情を育む 8
子女が愛を持ってくる

家庭教育部長 蝶野知徳
(Blessed Lifeより)


あまりいい表現ではありませんが、
子供は親の願うようにはいかないですね。
何度も書いている気がします。。。

しかし、だからこそ
親として、愛の器を要求されていると思います。

それがまさに、子供が愛を持ってくる
ということなのかな、と思います。

蝶野部長が先日の講座で語られていましたが、
子女のために何をしたらいいのかと悩むばかりで
何もしないのではなく、
「初動と精誠」が必要であるということ。

つまり、とにかく行動を始めること、
精誠を捧げること、内外の条件を立てること
愛することに徹していくことを通して、
あきらめなければ道が開かれていくことでしょう。

昨日も、松戸教会で
「子女復帰のための孝情奉献礼式」がありました。
これもささやかな、初動となり
精誠の条件となることを願ってやみません。




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