2021年07月19日

「私の人生は海のよう」*嵐を越える秘訣は「感謝すること」 《お母様、感謝します》



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光言社刊「真のお母様感謝します」より
金錫柄(キンソクビョン)氏(6000双)の証し、
『海のような人生を送られるお母様』です。


私の故郷は、南海の青い海を抱いています。
赤い夕焼けの中、空と一つになった海は、
いつも神秘に満ちていました。

幼い時、その穏やかな海で泳げば、
母の懐に抱かれたような安らかな思いになりました。

私は天一国三大経典の編纂の実務を、責任を持って進めながら、
真のお母様からたくさんのみ言を頂きました。

そのうちで最も印象的なみ言が、
海をご自身の人生に比喩されたものでした。


「私の人生は海のようです。
 海の中には、あらゆる生命体が生きていて、
 豊かに育まれます。

 深い海の底には、ごうごうと渦巻く
 巨大な水の流れがありますが、
 人々はそれを見ることができません。

 天の摂理はもちろん、私の生涯も
 このように展開されてきました。

 台風のように吹きつける摂理の中心において、
 私だけが知っている、
 語ることのできない事情がたくさんあります。

 私はその渦に巻き込まれずに乗り越え、勝利して、
 蕩減復帰摂理歴史を真のお父様と共に
 終わらせることができました」


このみ言は、幼い頃の海に対する記憶が鮮明な私には、
格別、印象深いものです。


お母様はまた、ご自身を荒れ狂う海に浮かぶ
帆船にも比喩されました。
広い海で、たった一艘で波にもまれる帆船であれば、
どれほど恐ろしく、孤独でしょうか。

その試練を越える秘訣を、お母様は一言、
「感謝すること」と語られました。
さらに、「感謝は、心と体が統一される道だ」
ともおっしゃったのです。
なんと深いみ言でしょうか。

私は、三十年余りを、お母様の近くでお仕えしてきました。
世界を舞台にした講演に随行することもありましたが、
そのたびに感動を受けることの一つが、
お母様の徹底した「時間厳守」です。

一日一国を巡回されることも希ではない強行軍の中、
常に万全の準備をされ、遅刻されることは
一度もありませんでした。

講演時間も同様で、予定された時間を正確に守られました。
いかなる状況においても、約束を安易にはお考えにならず、
お守りになるお方でした。

このように、ご自身には厳格なお母様でしたが、
食口たちには限りなく愛を注がれました。

日本の食口に対する愛は、一層切なく、
特別であるように感じます。
母の国であり、世界の食口たちの中で
最も多くの苦労をしているのがお分かりなので、
そうなのだと思います。

日本に行かれるたびに「故郷に来たようだ」とおっしゃり、
明るい微笑で食口たちに対されました。

忙しいスケジュールですが、食口たちと少しでも多く会おうとなさり、
少しでも長く和動会を持とうとされました。


お母様は、与えてまた与え、忘れる人生を生きられるお方です。

お母様はまた、強力で明確な
リーダーシップを持っていらっしゃいます。

一つのプロジェ クトを指示されるときは、
大きな方向と目的、さらに方法を教えてくださり、
事がよく遂行できるように導いてくださいます。

東欧の共産圏での地下宣教「ミッション・バタフライ」を
素材としてミュージカルを作るように願われたときには、
資料も少なく、途方に暮れるような気持ちでした。

そのとき、お母様は、
「祝福を受けたカップルの愛の物語を加味すればよい」
という方針を下さり、 ドラマチックで感動的なミュージカル
「天一国の蝶の夢」を誕生させることができたのです。

(二〇一六年二月、真の父母様御聖誕日と基元節三周年の記念行事で上演)

また二〇一六年から始まったHJ天苑摂理は、
お母様のリーダーシップが最高に発揮されているプロジェクトです。

特に天地鮮鶴苑は、真の父母様の生涯と業績を
世の中の人々に教育する殿堂で、
お母様の限りない関心と精誠が注がれている所です。

このためにお母様は、アメリカとヨーロッパの
有名な博物館や記念館を視察されながら、アイディアを構想して、
実務者たちに方向性を定めてくださいました。

お母様は外柔内剛の典型でいらっしゃいます。
鶴は優雅ですが、ヒマラヤを生死を懸けて越えていくように、
お母様は食口たちには限りない愛で接してくださいますが、
摂理の前では強く雄々しく先頭に立っていらっしゃいます。

「六千年の摂理史を、私の当代に終える」
というお母様の誓いを、私は信じます。

お母様は信じられないことも信じてこられ、
許すことのできない人も抱いてこられました。

そうして、お父様と共に復帰の道を開拓なさり、
原理の道を踏んで上がり、
ついに天の父母様と一体になられました。

「真の父母様はみ言の実体であり、実体のみ言である」
ということを、毎日毎日、実感しています。

海のような人生を送られるお母様――。
海にはすべてのものを抱く豊かさ、温かさがありますが、
原理原則によって運行する厳格さもあります。

天一国時代、地上に実体として いらっしゃるお母様は、
その海のようなお方です。

「海のような人生を送られるお母様」
金錫柄
真のお母様、感謝します(心を打つ、50の証し)


「感謝は、心と体が統一される道だ」
金錫柄先生が語られているように、
本当に深い深いみ言だと思います。

お母様はどんな状況であっても
常に「感謝」の思いを持って歩まれました。
そして、困難を乗り越えていかれるのです。

私たちも、当然、同じように
「感謝します」という思いを持って、
日々、歩んでいきたい、と思うのです。



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2021年07月18日

今日は休みたいと思ったとき・・・ 真のお父様の場合は 《篠崎部長》



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昨日、清平に現れたダブルレインボー☆


篠崎部長の「喜びと幸せの生活伝道」
いつも原理のみ言と、具体的な証しを通して
私たちに伝道勝利の秘訣や、
信仰生活に必要なエピソード満載です。

今日は
「天の信頼を勝ち取る」です。


真のお父様は心情の復帰段階について、
縦的八段階を示されました。

それは僕(しもべ)の僕、僕、養子、庶子、実子、
母、父、神の八段階です。

私たちが蕩減条件を立てながら復帰の道を真剣に歩むならば、
「嫌だけれどもする(僕の僕)」から、
最終的に「喜んでしてあげたい(実子)」に至るまで、
心情が変化していきます。

そうして、神様の心情と理想に近づいていくのです。


私たちがみ言を知ったとき、それを戒めのようにとらえ、
「やらなければならない」と感じることがあります。

たとえ「嫌だなあ」という思いを抱きながらみ旨を歩んだとしても、
それは僕の立場を通過しているのであり、
復帰路程を間違いなく歩んでいるのです。


堕落した人間はメシヤによって原罪が清算されます。

ところが、「堕落人間が創造本然の人間に復帰するためには、
『メシヤのための基台』を完成した基台の上でメシヤを迎え、
原罪を取り除かなければならない」
(『原理講論』277ページ)とあるように、
メシヤを迎える長成期の完成級までは、自らがサタン分立路程を歩み、
信仰基台と実体基台を立てて、
「メシヤのための基台」を造成しなければならないのです。

『原理講論』に、「人間が堕落したのちにおけるこのような条件物は、
人間の側から見れば、それは『信仰基台』を復帰するためのものであるが、
神の側から見るときには、それはどこまでも
所有を決定するためのものであったのである」
(279ページ)
とあるように、人間が神様の信頼を得る条件を立てるとき、
神様はサタンから人間を取り戻すことができるのです。

 
み旨の最前線で、神様を疑いたくなったり、
置かれた立場から逃げたくなったりすることがあります。

しかし、そこで神様の愛を最後まで信じて疑わない
不変の心情を貫くとき、神様が私たちを抱きかかえてくださるのです。

信仰基台を立てるには、「数理的な蕩減期間」が必要なので、
ある一定期間、神様との約束を死守し、
サタンに奪われることなく無我夢中で一瞬一瞬を歩むのです。

たとえ神様から捨てられたような環境でも、
神様に対する孝の心情で信仰を全うし、約束を果たすのです。


神様との約束を守る道は、神様に侍(はべ)る生活です。

かつて真のお父様はアラスカで歩んでおられたとき、
毎日、夜遅くまで釣りをする精誠を捧げておられました。

あるとき、お父様がベッドの角で頭を打ち、けがをされたことがあります。
それは、お父様が海から戻って食口にみ言を語られた後、
2時間もお休みにならずに、
翌朝4時に再び海に出発しようとされたときのことでした。

真のお母様が、
「きょうはお休みになったらどうでしょうか?」と申し上げると、
真のお父様は、
「私は神様と海で5時に会う約束をしているんだ。
行かなければならない」とおっしゃり、そのまま出発されたというのです。


私たちは、信仰基台の中心人物であるアベルの立場です。
真のお父様は以前、本然のアダムとして来られたお父様と一つになってこそ、
アベル(霊の親)として立つことができるとおっしゃいました。

真の父母様と一体となり、真のお父様のような歩みをすることによって
神様の愛が分かり、サタンを分別できるのです。
私たちは父母様の伝統を相続し、
その代身者として伝道に臨んでいきましょう。

篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第二章 主と出会った者の行くべき道
二、蕩減条件と責任分担
「天の信頼を勝ち取る」

氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道〜み言の原点に立ち返る(17)
(blessed lifeより)


「神様と海で5時に会う約束をしている」
神様を愛するお父様の心情が現れていますね。

神様は目には見えませんが、
神様との約束を守る、
これはとても重要なことだと思います。

ちょっと次元が低くなりますが
私の話をしますと。。。

今年の正月、家族で筑波山登山を約束しました。
ところが朝起きると子供たちは熟睡して
みな起きてきませんでした。

私は個人的に意気込んでいましたし、
やはり神様に約束をしたから・・・
そんな思いで一人筑波山に向かいました。

下山の時、足を痛めて散々な目にあったのですが、
この時を期して、体力増進を心に定めました。
それまでは挫折しがちでしたが、以後
毎日、最低1万歩はランニング&ウォーキングしています。

み旨においても、このような歩みをして、
天の信頼を勝ち取る者になっていきたいですね。



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2021年07月17日

「伝道以前の問題」 砂に水を注ぐことにならないための準備 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の「信仰と生活」の
み言より「伝道以前の問題」です。

 
私たちは、信仰に出発する前に、既に
信仰の基盤をつくって、それからこの言葉に接したのです。

信仰の基盤がつくられていない人は、
言葉を聞いてもなかなか信仰に入りにくいのです。

私たちはみ言を聞いて喜んで、だれでも
この言葉を聞いたら、先立っていくだろうと思い込んで、
「原理」を紹介します。

ところが、案外聞きません。
その理由は、その人の今までの生活において、
善に対しての基礎がなく、基盤がないからなのです。

そういう人を伝道する時には、
まず自分もその人と同じ基盤の上にいると思うことです。

基盤ができている人は、別に苦労しなくてもついて来るのです。
「私も連れていってくれ」と言って、
向こうのほうから積極的に訪ねてくるのです。

だから伝道する前に一度、そういう基盤が
できているかできていないかを調べてみなくてはいけないのです。

それには普通、その人の喜びとか悲しみなどを調査するのです。
どういう条件でうれしがるか、どういう条件で悲しむかを調べるのです。
その人が情の基盤を公のものにもっていれば、
神に対して何も欲しくなくても、神が先に主管してくれます。

だから、一番初め、その人の話を聞いて、
どれほどの基盤がつくられているかということを分かってから、
その基盤の上に話を投げかけないと、
砂に水を注ぐように言葉を失ってしまうし、
その人は受け入れなくなってしまうのです。

開拓伝道などに出た場合、自分個人としては
信仰基盤を内的につくって出たけれども、
外的には、自分を中心として二、三人、
基台をつくってくれる人を探さなくてはいけないのです。

 
イエス様は、初め、家庭で基盤をつくろうと思った。
しかし、兄弟も母も全部応じなかったのです。

第二には、エルサレムへ行って祭司に当たっていった。
ところが祭司たちもまた、イエス様を中心とした
基台になることを拒んだのです。

第三には、洗礼ヨハネに話していったけれども、
洗礼ヨハネは応じることなく、その弟子たちも崩れてしまったのです。

それで、イエス様の路程は完全に崩れて、
自分自身で基台をつくるために再出発したのです。

それで、ペテロとヤコブとヨハネを相手に
基台をつくったのですが、
そういう人をどこへ行って探したかというと、
この世で捨てられた人、貧乏な人、無職者など、
その時代のユダヤ社会の一番下層の人たちのところへ行って、
イエス様もその立場に落ちて、
そういう人たちと基台をつくったのです。

それは信仰の基台というよりも、
その人たちの悲しみによる基台なのです。
その時代に捨てられた立場の者たちの基台なのです。
イエス様自身何もないから、何もない人に同情してやるのです。

初めの時、イエス様は、自分のもっている使命を中心として
祭司長と関係を結ぼうと思いましたが、それが失敗してからは、
自分の立場で基台をつくることをあきらめたのです。

悲しみの人間を慰めながら基台をつくって
育てなければならないという、第二の出発です。
だから、それはメシヤの立場ではなく、洗礼ヨハネの立場でもない。
悲しい人や病人に奉仕し、侍りながら、
その人を中心として、自分が基台をつくろうとしてきたのです。

それでも弟子たちは、この奇跡を見てだんだんと
イエス様という人を分かってきたのです。

弟子たちは、この奇跡の能力をもって、何か、
私たちの悲しみを除いてくれるのではないかというように、
自分を中心としてイエス様を喜んで迎えたのです。
そんなふうにしかイエス様を迎える人はいなかったのです。

あるいは、イエス様の霊的な実力を見て、
この人は将来、祭司長より成功するのではないかということで、
弟子の立場でイエス様を利用して幸福を得ようと、
そんな基準でイエス様を信じてきたのです。

  
韓国では、伝道に行って初めに何をするかというと、
その村とか町での、一番悲しい家族を探すのです。

例えば、夫が兵隊に出てしまった女性たちだけの家とか、
息子を兵隊に取られたおじいさんやおばあさんだけの家とかを訪ねて、
言葉をもって付き合うのではなく、
信仰問題には触れず、人格的に交わって、
相手の人たちが自分を利用して、
何か喜ぶようなことをしなくてはなりません。

だから、僕の立場で町へ来て、この肉体の力で
何かやる仕事はないかなと探すのです。

先生はそれをやる方法を教えてくださるのです。
それは、一番遅くまで寝ることができないで、
一番早く起きる家を探すのだといわれるのです。

また、聖書的にいえば、ある村を伝道する伝道者というのは、
その村の祭司長の立場です。
祭司長というのは、祭壇の火を徹夜して守るのです。

火を消さない理由は、心情をもって
この世を守るという意味なのです。

だから、先生はいつもおっしゃるのですが、
その村で一番遅くまで起きていなければならない家へ行って、
庭を掃いたりして奉仕するのです。

そうすれば、信仰のことは一言も言わずに
その人と情が結ばれ、それを基盤として汗と涙を流すのです。

神と相対しながら、その人のために奉仕する期間は
非常に成長するのです。
神との秘密をもった時、神は熱心に協助してくれるのです

1.牧会
「伝道以前の問題」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


伝道を成していくためには、
基台を立てなければならない・・・

私たちが導かれる前にも、
先祖や親たちの功労や背景、
生まれてからの様々な出会いが
準備されていたことを、今思えば感じます。

イエス様はゼロから出発されました。
どれだけ基台を作られるのが、
大変なことだったでしょうか。

真のお父様も、同じように
すべてを失った立場から出発されたのです。

しかし、私たちには基台があります。
真の父母様の立てられた勝利圏があります。

今は、外に向かっていくときですが、
そのためには、
より、内部がしっかりしなければならないでしょう。
いわゆる「内部伝道」が必要です。

コロナ禍の時こそ、
内部充電をして、
蓄えていく時だと思うのです。




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