金元弼(キン ウォンピル)先生の貴重な平壌時代証し
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
一章を終わり第二章に入ります。
「いつも弟子に関心をもたれる先生」より
2コマを紹介します。
☆
祈りと神と人への愛
礼拝のお祈りの時、あるいは準備をしている時には、
常にほかの人のことを考えてほしいと思います。
お祈りしているということは、神との対話の時間になるわけです。
お祈りしている時に、“バン”と音がしますと、
皆さんのお祈りはパッと切れ、分散されてしまいます。
ですからお祈りをしている人がいる時には、
神を愛する、人を愛するという礼儀作法として、
その人の邪魔にならないようにするということは
非常に大事なことだと思います。
私がたまたま部屋でお祈りしていると、非常に大きな音を立てて、
そのまま気にかけずに歩いていく人がいますけれども、
皆さんはそういう人に教えてあげなければいけません。
祈祷は神との対話の時間だということを皆さんはよく心得て、
人の邪魔にならないような生活をするということ自体が、
その人を愛し神を愛することになるわけです。
☆
み言に酔った信徒
日曜日には、サンデー・サービス(礼拝)があります。
説教者に予定されたとき、どのように説教したらよいか
分からないので、日曜日が来るのが非常に不安な時があります。
聖書を中心としてどのように説教したらいいのか。
統一原理の内容と聖書をどのようにかみ合わせていったらいいのかと。
☆
先生はいつも朝早くみ言を語られました。
今は聖書をそんなに見られませんけれども、
先生が韓国におられた時に、サンデー・サービスの前には
必ず聖書を読んで、聖書の内容を中心として、
ずっとみ言を語ってくださいました。
先生が説教していらっしゃると、
霊能者たちは高い心霊の状態になりました。
ある人にお祈りをさせると、代表して
立ってお祈りするのですが、霊界に入ってしまうのです。
その祈りが終わらないと、次の式順に進めません。
非常に不思議なことですが、先生が「もうやめなさい」と言われると、
霊界に入っていたその人は、自分の意識に帰るのです。
そういう場面を見ますと、先生の世界がちょっと分かりました。
☆
礼拝が進行しているうちに、先生のみ言を聞いて、
自分はどれくらい神に心配をかけていたことかと
悔い改めの悟りをしました。
ですから説教の時にも、お祈りの時にも、
涙を流して泣かない人はいないのです。
中には恵みを受けて喜んで涙を流す人もあれば、
悔い改めの涙を流す人もあり様々でした。
神の愛に感謝して涙を流す人もいました。
涙を流す動機はそれぞれ違いました。
涙を流すにも、ただ涙を流すのではなく、
胸をたたきながら泣く人もいました。
ある人は体が震え、ある人は大きな声を出しました。
☆
その人はおばあさんですが、立って踊るのです。
しかし皆様が思うようなそういう踊りではありません。
韓国の女の人は、人の前では踊ることも
歌うこともありませんでした。
ですからこれは自分の意志ではなくて、
霊の助けによって踊っていたのです。
踊る人自身も目を開けているのではなく、目をつぶって踊りました。
ある人は喜びがあふれて、歌を歌うにしても
手をたたきながら歌うのでした。
☆
酒に酔っぱらった人のことを考えてみれば、
大変理解がしやすいだろうと思います。
酒に酔ったら黙っていません。
歌を歌い、踊って喜びを発散させます。
笑ったり泣いたり、話をどんどんする人もいますし、
いろいろな人がいるのです。
もともと人間が神の愛に酔っぱらう世界が
神の理想世界だというのです。
神の理想世界は神の愛で酔っぱらう世界。
そのような酔うという本性がありますから、
神の愛に酔うことができないと、
トランプでも良いし何かで酔っぱらおうとするのです。
お酒に酔っぱらっている様子と神の愛に酔っている様子は、
全く異なるものではないということをお話ししたかったのです。
しかし、方向性が違います。
☆
初期の先生による礼拝の雰囲気は、
本当に神の愛に酔っぱらったようなものでした。
ですから騒がしくて、それを理解できない
周りの住宅街の人たちは、教会の隙間からこれを見ていたのです。
こういう状態で、夜になると夫や妻を近づけないということと
連結して考えてみると、これは本当に
淫乱なことがあるからそうなのではないかと考えたのでした。
I 平壌開拓から興南解放
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「祈りと神と人への愛」
「み言に酔った信徒」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「祈りと神と人への愛」
「み言に酔った信徒」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
「神様の愛に酔う」・・・
お酒に酔うのと同じような状態だと考えると
神様の愛をまだまだ知っていない、
まだまだ到達していないな、と思わされます。
信仰生活とは何か、
「神様と善霊がともにある生活である」
昔、先輩から講座を受けたことがあります。
本然の世界というのは、
本当に素晴らしい世界であるに違いありません。
ただ待っていても到達するわけではないですから、
日々、神様と絶対善霊を意識しつつ
感謝して過ごしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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