「行け」というのも神、奇跡を起こすのも神・・・
李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「信仰と生活」のみ言より
「心を土台として神がやる」です。
☆
神は、一遍に三つ、四つのことを命令する時があるのです。
そういう時は、「行け」と言っても、行くのを見るのが目的ではなく、
「行け」という命令を受ける時の、その人の
「行きたい」という心構えを見るのが目的なのです。
だから、「こんな人間に、あれやこれやと忙しく仕事を
させなくてはならない神は、かわいそうだな」という
神に対する同情心がわき上がるくらいの心情があるならば、
こんな自分も神にとっては必要であり、
こんな自分をも信じてくれるのだという
縦的な因縁を発見するのです。
そのように、神と神が命令した人との間に、
相対基準ができれば、たとえその場に座っていても、
あとは神がやってしまうのです。
そういう信仰がないと、「体は一つなのに、
あれもこれも……」と不平を言いやすいのです。
☆
モーセに率いられた六十万の民は、紅海を前にして、
「たくさんの人を連れてきて、どうするつもりか」と、
モーセに不平を言ったのです。
もしもその六十万の民が、
「エジプト軍の馬の足に踏まれて死ぬのは恥である。
海の中に飛び込んでも、私たちをここまで連れてきた神が、
滅ぼすはずはない」と信じたならば、
モーセが杖で海を打つ必要もなかったのです。
☆
だから、ああやれ、こうやれという事情がぶつかってくる時には、
「人間はたくさんいるのに、神様、こんな者を
選ばねばならないのは、本当にかわいそうですね」
と祈ってみれば、自分も涙が出るのです。
その涙は、神の涙です。
その時に神の悲しみを体験するのです。
そのあとで、我知らず「やるぞ」
という誓いが出てくるのです。
すると、神が仕事をやるのです。
命令は神がして、なすべき結果も神がするのです。
人間は復帰摂理に加担しているけれども、
仕事は全部神がしているのです。
私たちの「心」を土台として、神がやるのです。
私たちが伝道に出た時など、特にそれを経験するのです。
何かに成功しても、神の前には「それは私がやったのです。
私でなければできないことです」とは言えないのです。
縦的関係において、「やりたい」という気持ちがあれば、
仕事は神がやっていくのです。
1.牧会
心を土台として神がやる
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
心を土台として神がやる
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
神様を動機として歩むこと。
結果はどうだったとしても、
すべて神様が主管される。。。
そのように思うことが重要だと思います。
私たちは、結果に左右される堕落性があります。
ダメだった時は、反省し、
悔い改める、というより、
ただ悔いるだけで終わってしまったりします。
また、結果が良かった時には、
神様を忘れてしまって満足してしまう、
つまり栄光在天ではなく、
自分に返してしまうこともあるでしょう。
置かれた環境に、神様の意図、配剤を感じる。。。
いつの時にも、しっかりと心を神様に向け、
神様を中心に歩んでいけるように、
あらためて心がけていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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