「日本を愛される文先生の足跡」
今回は、早稲田、高田馬場の特集です。
☆
1965年10月8日、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は
東京都中野区野方にあった早大原研寮(成和寮、後の早成寮)を訪問されました。
そこで日本留学時代のことを話されたのです。
「早稲田の高田馬場の道を、
先生は一日に2回ずつ歩いたよ。
よく歩いた。
今も歩いてみたらなんだな、月が出ておるよ。
それを思うと今晚近い所へ来たんだから昔を思い出す。
一度歩きながら、神に対して祈った日本での情が
日本の一角に成しえられた感謝の念を抱きたい、
先生、こう思う。
もしもそういうことをできずして国に帰ったならば、
君たちがそういう気持ちでもって、
早稲田の戸塚町を、高田馬場から歩いてほしい。
わかりますか?
そこにある角道、そこにある電信柱、
そういう君たちの記憶に慣れている所には
先生の涙があることを思っても、
それは間違いないでしょう」
(『日本統一運動史』、p71〜72)
そして「この早稲田の若者たちを
記憶してください」と祈られました。
その日、成和寮は文先生によって早成寮と改名され、
「天宙成寮 早成勇士」という揮毫を下さいました。
☆
帰り際に、文先生はテーブルの上に用意されていた
上等なリンゴやバナナを、集まっていた一人一人に手渡してくださり、
ご自分は粗末な小さなリンゴをひとつ手に取り、
「先生はこれを頂いて行きますよ。
本当はこれがおいしいんだよ」と言われました。
そして先生の車にいつまでも手を振っているメンバーたちに、
窓から手を出され、車の屋根をバン、バン、バンと
たたいて行かれました。
☆
学生時代、下宿された三橋家を訪問
学生時代、文先生は東京都淀橋区戸塚町1丁目
(現在の新宿区西早稲田2丁目)の
三橋(みつはし)孝蔵・イトさん宅の2階に下宿しておられました。
早成寮訪問に先立つ65年1月29日、
文先生は下宿先であった三橋家を長時間かけて捜され、
三橋イトさんと劇的な再会を果たされました。
留学時代は文先生にとって、メシヤとしての使命を
全うされるための深刻な準備の期間だったのです。
「文総裁はこの原理を捜すために、
満身創痍(そうい)になって、一日に12時間も
14時間も祈祷したことが何年も続きました。
…原理の本には血と汗と涙が絡み合っています」
(『真の御父母様の生涯路程』@、p199)。
原理の解明のみならず、品川の貧民街や新宿の裏町に行かれたり、
川崎の造船所で労働されたり、あらゆる体験と研究をされたのです。
韓国人蔑視(べっし)と差別の強かった
戦時中にもかかわらず、三橋家は
快く文先生に下宿を提供され、温かくお世話されたのでした。
☆
早稲田の学生時代、お父様は
涙を流さない日はなかったといいます。
45度以上、頭を下げ
罪人のような立場で生活されて、
原理の解明のためにひたすら精誠を尽くされた
その土台があり、統一教会は出発しました。
世界宣教は、日本から始まり、
西川勝(韓国名:崔奉春)宣教師が派遣されました。
西川先生が日本で活動された場所が
何と早稲田、高田馬場の地でありました。
最初に礼拝を捧げた時計店、雄鶏舎は、
くしくも、お父様が下宿された
三橋家の徒歩5分のところにあったとのこと。
このことは、西川先生があらかじめご存知で、
早稲田の地から宣教を出発されたのではありません。
すべて天の導きの中でなされていかれたのでした。
天に対する精誠は、
このような形で実りを結ぶのだと思わされます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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