2021年08月28日

人生の転機、すべてを懸けて臨んだ原理大修練会 そして大抜擢 《小山田先生自叙伝》



210828-1967.0612.png


小山田先生の自叙伝。
今回は、「『原理講論』の翻訳チームの一員に 」です。


(1965年の2回のご来日から)2年後の1967年6月12日、
真の父母様は、 ご家族を伴って初めて御来日、
約2カ月間、滞在されました。

このとき、前年(1966年)5月1日に韓国で発刊された
『原理講論』に基づいて、東京・渋谷の松濤本部で、
「原理大修練会」が2回にわたって開催されたのです。

私は、「(当時の)『原理解説』(『原理講論』の前身) だけでは満足できず、
これ以上、統一教会にはいられないな」と思っていたので、
この原理大修練会に懸けてみようと思いました。

当時の本部は、せいぜい150人ぐらいしか収容できませんでした。
そのため、原理大修練会は2回に分けて行われ、
合わせて約300人の全国のリーダーたちが受講したのです。
私は、 第1回(6月17~30日)に参加しました。

原理大修練会では、劉孝元(ユヒョウォン)先生
(韓国初代協会長)が原理講義をされました。
カリエスで 不自由な体を押しての講義でした。

そこで祈れば祈るほど、修練会における劉孝元先生の祈りが
切々と伝わってきたのです。

「父母ならざる者を父母となし、兄弟ならざる者を兄弟とする」、
それは、いつも劉孝元先生ご自身が体験されてきた内容だと思いました。

講義中、「原理」の重要な部分になると、
真のお父様がお立ちになり、解説してくださいました。


「原理大修練会」が終わった直後、私は
『原理講論』の日本語翻訳チームの一員に選ばれました。

ほかに、野村健二先生、小河原(櫻井)節子さん、佐藤(大山)方美さん、
滝川栄子(のちに奈田寿美子)さんがいました。

劉孝元先生は真のお父様の所に私を連れて行き、
紹介してくださいました。

そのときお父様は、
「クリスチャンが統一教会に来るというのは大変なんだよ。
 よく来たね」
と歓迎してくださったのです。

劉孝元先生は、私にアドバイスをしてくださいました。

「真のお父様との出会い方にもいろいろあると思う。
 能力や霊力、総合的能力など。
 しかし、お父様を見詰めるための焦点が合わないと、
 お父様は見ても見えない。
 君は、原理のみ言を焦点にして、お父様を見なさい」


その後、お父様は、「劉孝元と小山田が連絡の核となり、
『原理講論』の構成や翻訳などに 関わるように」
とおっしゃいました。

そして私は、『原理講論』の言葉の翻訳や名称の記述を整えるために、
ずっと劉孝元先生と共に携わってきたのです。
その工程の中で感じたことを紹介したいと思います。


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劉孝元(ユヒョウォン)先生
(韓国初代協会長)1967.6.12

自叙伝「真の父母様の御跡を慕って」
小山田秀生


第二章 真の父母様の御来日と『原理講論』
『原理講論』の翻訳チームの一員に


劉孝元先生の原理講義は、日本食口たちにとって、
革命的な出来事だったのではないでしょうか。

み言自体にも人を生かす力があると思いますが、
語る人の熱情、動機と心情も、人の心を動かす、
重要なポイントであることを改めて思わされます。

また、小山田先生が、原理講論日本語訳の中心メンバーでした。
「これ以上、統一教会にはいられない」と思って、
原理大修練会にかけようと思って参加されたのですが、
神様が重要な立場に用いられたのでした。。。

劉孝元先生とのやり取りなど、
その後の証しが楽しみです。




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2021年08月27日

お母様には、胸に秘めたまま語れないことが多くある 「母だから」 《文ヨナ様4》



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文鮮明・真の父母様9周年記念式☆


文姸娥様の6年前に語られたメッセージの続き
今回は、「二世たちの未来のために
『天一国の実体化』を願われるお母様」です。


真のお父様のご聖体を前にして、真のお母様は
「命が終わる日まで天一国(てんいちこく)の実体化のために
最善を尽くします」と約束なさいました。

なぜ、「天一国の実体化」なのでしょうか?
子女様たちのことでも、ほかのことでもなく、
なぜ「国」なのでしょうか?
その答えがこのみ言の中にあったのです。

真のお父様の願いは何でしたか?
「たった一日でもいいから、神の国で
生活すること」だったでしょう?

その願いが分かるから、その願いを
かなえてさしあげたい真のお母様なのです。


しかも真のお母様は、ビジョン2020までに
国を建てることを決意されました。

それを伺ったとき、私は「果たして韓半島の統一が
2020年までにできるだろうか」と、疑いの心を持ちました。

そして「2020年は真のお父様の聖誕百年を迎えるから、
そこに意義を置いて、おっしゃっているのだろう」
と単純に考えたのです。

ところが、真のお母様のお考えは、はるかに高い次元のものでした。

お母様は韓半島の情勢や世界情勢をご存じないでしょうか?
誰よりもよくご存じです。
それでも「2020年までに」とおっしゃいます。

そのうえで、私たちに神氏族メシヤの祝福を下さり、
後ろから激しく鼓舞しておられます。

 
真のお母様は73歳(数え)です。
もう心安くお過ごしになって、そのまま霊界に行かれても、
誰か責める人がいるでしょうか?

なぜそのように多くのことを抱え込んで悩まれ、
ひとときも気楽に休むことができずに、
世の中のことを心配しておられるのでしょうか?

この疑問に対して私が出せた唯一の回答はこれでした。
「真のお母様が父母だからだ、母だからだ」

もし百年後、千年後に神の国ができていなければ、
子供たちがどうなるか分からないのです。

そう思えば、どの父母が気楽に過ごせるというのでしょうか?
「どうにかして、子供や孫たちが安心して生きていける
国を探さなければならない」と死に物狂いになるでしょう。

真のお母様はそういうお気持ちなのです。
だからこそ、子供たちを追い立ててでも一緒に行こうとされるのです。
父母なので、次の世代を考えながら、
惜しみなく苦労してから逝こうと思われるお母様なのです。

こう考えたとき、天一国憲法にしても、天一国の歌にしても、
天一国経典にしても、真のお母様は、全て
「国を求める」という目的の中で推し進めてこられたのだ
ということが、よく分かったのです。


真のお父様の聖和以降、父親を失った私たち子供は
皆、さまよっていました。
そのうえ、真のお母様までさまよっていたら、
どうなったでしょうか?

この期間、お母様は、ある意味でお母様のようではなく、
とてもお強かったし、恐ろしくさえ感じられたこともありました。
そのように固い決心をしなければ行けない道だったからです。

真のお母様は、真のお父様聖和千日記念礼拝(5月30日)で
渡米された際、イーストガーデン(ニューヨーク)での
訓読会で、いつもより多くの涙を流されました。

「お父様が悲しまれているようだ」とおっしゃいました。
しかしその後、「たくさん泣きすぎた」と後悔なさったのです。

個人の感情や痛みよりも子女たちのことをお考えになり、
自分が悲しんでいるときではないと思われる
お母様でいらっしゃるのです。


私も孝進様が聖和されたとき、子供たちの前でも
皆様の前でも、泣いたり悲しんだりしないように努力しました。

そういう私を見て、
「あまり笑わずに、少し印象を考えたほうがいいですよ」
とアドバイスしてくださるかたもいたのです。

では、私が人前で泣かないからといって、悲しんでいないのでしょうか?
私が笑って暮らしているからと言って、
孝進様のことを忘れたとでもいうのでしょうか?
そうではありません。


真のお母様もそうです。
真のお父様のことを口にされない時があるからといって、
お父様のことを忘れて生きておられるのでしょうか?

お父様のことが分からないままに摂理を進めておられるのでしょうか?
決してそうではないのです。

真のお父様には、私たちには明らかにできなかった、
どれほど多くのご事情、曲折、つらい
蕩減(とうげん)復帰の歴史があったことでしょうか?
私には到底分かりません。

お父様はそれを教えてくださらないままに聖和されました。
なぜでしょうか?
それを知った人はその道を行かなければならないからです。

知ったとしても、私たちがその道を行くのは
不可能だから、教えないでいてくださったのです。


真のお母様もこう話されたことがあります。
「私には語れないことが多くある。
全体のためには話をしないほうがよいので、
胸に秘めたまま逝こうと思う」と。

私は、真のお母様が誰かのことを「間違っている」と言って、
非難なさるのを見たことがありません。
多くのことを胸に納め、常に愛で包んでくださいます。

そしてただ、「天の父母様に孝行しよう」と激励してくださいます。
それだけでなく、「真のお父様に記憶されなければ、
霊界でお会いできない。どうするのか」と言いながら、
私たちの永遠の世界までも心配してくださるのです。


南北統一に関しても、真のお母様以外に
誰ができるというのでしょうか?

お母様が地上にいらっしゃる運気の強い時に、
何としてもその軸を立てなければならないのです。
それが現実にいつ、どのような形で現れるかは別としても、
あらゆることを準備しておきたいと思われるお母様なのです。

真のお母様はこうおっしゃいます。

「私は生涯を本当に父母の心で生きてきた。

 あなたたちが過去に何か過ちを犯したとしても、
 今、熱心に努力していれば、その姿を見て、
 過去の過ちを赦(ゆる)し、忘れてきた。

 そして今後も熱心に努力し、うまくいくよう願ってきたよ」


世の中には、私たちよりもはるかにりっぱな人たちが
たくさんいます。

私たちが真の父母様と共にいることができるのは、
祝福を受けたことでサタンが手をつけることが
できなくなったという、その一点ゆえです。
私たちは皆、同様に足りない者たちなのです。

国際祝福家庭の集い
2015年8月15日東東京教区新宿教会
(『世界家庭』2015年10月号に掲載)

私たちの真の父母様
〜文姸娥様のメッセージ〜
真のお母様は今、何を見詰めていらっしゃるのか(4)
(blessed lifeより)


真のお母様は、「母だから」
その一点の動機で、天一国を建てる歩みをしておられます。
私たちの「父母」であられる真の父母様に
心から感謝したいと思いました。

また、だからこそ私たちは、
子女として、孝行の道理を立てるべきなのだと思います。
それがまさに「孝情」です。

そして、真の父母様が父母として歩まれるので、
すべてが導かれた歩みをしておられるように、
私たちも孝情を動機として歩むならば、
すべてが導かれていく、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 06:59 | Comment(0) | ご子女様・真のご家庭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月26日

「本当に神は存在するのかな?!」 文鮮明・真の父が発見した神とは 《奈田先生》



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聖和9周年を迎えた、真の父、
文鮮明師の、神様に関する珠玉のみ言の数々。。。

信仰の長い方にも、
神様って本当にいるのだろうか、そんな
疑問を持たれている方にも読んでいただきたい。

久しぶりの紹介になりますが、
奈田先生の「父母と共なる生活」から
『神を知る』です。

第三章 父母観(その二)
一 神を知る


一体私たちは、神をどうやって知ったらいいのでしょうか。
これは戸惑うことでもあります。

文先生ははじめから神が分かっておられたかというと、
先生もご自身で苦労して探究してこられているのです。

文先生が知られた神とは、一体どういう神なのでしょうか。
文先生は、論理的にいろいろの書物を通して、
また歴史や聖書を通して探求され、祈祷も相当されました。

またわざわざ苦境の中に入って、
苦悩する人々の心情を味わわれたのです。
そういう中で出会われた神を、
私たちに無償で教えてくださっているのです。

文先生ご自身、神を知るために本当に深刻、真剣であられました。
文先生の足跡を知ることによって、
私たちも神を知ることができるのです。

文先生は、神の事情や心情を知ったがゆえに、
み旨の道を行かざるをえないし、休むことができないのです。
「知ってしまったからです」とよく言われます。


文先生が神について真剣に考えられたことについて、
次のようなみ言があります。

 
「神は存在するや否や?

 ……神を考えるのに、
 まず自分というものを考える。

 自分はどこから来たのか。お母さんから。
 お母さんは、お母さんのまたお母さんからと、
 どんどんさかのぼる。
 すると人間のはじめはどうなっている?

 本当に神がつくったのかな?
 いろんな人種が生きているが、自分は
 どういう系統の中に立っているのだろう?

 神と人間とはどういう関係になっているのだろう。
 ……歴史的関係は? 時代的関係は?
 未来の関係は? 何の関係だろう?………
 
 その関係は何を中心とし、
 キーポイントにしているか。
 それが問題である。……
 
 神がいれば、神自体は何か。
 神の希望は何か。

 ……我々の生活に事情があるように、
 神にも事情があるだろう。
 神の事情は何か。

 神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするか。
 神の目的。……
 あらゆるものが問題になってくる。

 この希望や心情、みんな総合して結論を下すと、
 それは『人間』ということになる。

 では、人と神との関係は何か?
 それには心情基準を
 通過していかなければならない。
 結局、深いところに入って祈る。
 祈って聞いてみる」
(一九六五・一〇・七)


結論は祈りになってくるのですが、
このように文先生は人間について考え始めて、
自分という存在にとても悩まれたのです。

ですから、「自分はどこから来たのだろう」などと、
自分をよく見つめてみなければならないのです。
そういうところからでも神を知ることができるのです。


次に客観的に考えて、人間とは一体何だろうか、
宇宙の根本とは何だろうか、という理論的問題があります。

 
「そうして、『宇宙の根本は何か?』
 と聞いてみると、
『親子だ!』というのである。
 父母と子供。
 神と人間が親子の関係であるという。

 天的心情、天的血統を中心とした
 親子関係が宇宙の根本である。

 ……では、いかなる論法でもってしても
 否定できない
 その親の心情圏にいかに入るか。

 その問題は心情でなければ分からない」
(一九六五・一〇・七)


「『神よ。お父様!』と叫べば、
 宇宙のすべてがそこに集まる。

 それは自分の心からいかなる心が起こっても
 神が自分の親であるということを否定できない。
 そして神自身も自分に対して「そうだ」と言う。
 そこに至って疑うことのできない
 親子関係を結んでいく」
(一九六五・一〇・七)


このような考え方の順序を通して、文先生は
ご自分が通られた道を教えてくださったのです。
ですからそのとおりに考えてみたらよいと私たちに言われるのです。

「お父様!」と呼んで、宇宙のすべてが
そこに集まってくるようになるまでには、
相当の戦いがあり、時間もかかっていると思います。

文先生は生まれた時から神と一体であったのではなく、
先生ご自身が悩んでこられた世界があったのです。
そうして神と出会ってこられたのです。

ですから、私たちもそれに倣っていけば、
必ず神に出会えるというのです。


また、文先生は歴史をひもとかれました。

 
「神の歴史を知らなければならない。
 神を理解するには、これまで
 神の歩んでこられた道を知る必要がある」
(一九六五・一・二八)


「原理講論」の中で、
神が実体的に本当に分かるのは復帰原理です。

 
「そして我々が発見しなければならないのは、
 神が幸せな神であったか、
 ずっと不幸な神であったかということである。

 また、神の真の心情と行動をも
 発見しなければならない。

 もし神が不幸な悲しい神であるなら……
 その理由を知らなくてはならない。

 神が最も不幸であった時を知らなくてはならない。
 その悲しみはずっと以前に始まったものなのか、
 それとも最近なのか。

 今、神は不幸だというなら、
 以前は幸福だったのだろうか」
(一九六五・一・二八)


このように神について考えてみると、
神の心情が身近になってきます。

 
「それでは何が神を不幸に変えさせたのか。
 このことを知ることが問題の中心である。
 これらについて皆さんが勉強しているのが、
 原理である」




文先生は旧約聖書を幾度もひもとかれたのだと思いますが、
このように歴史を通して神の心情を見られるのです。


そして実践と祈祷をされました。
ですから、

 
「一週間も寝ずして、涙を流しながら、
 神はいるかいないか、見たい神はいずこにいるや、
 というような心境でもって、
 涙の続く一週間以上の、
 そういう深刻な立場が何回もいくらでもあった」
(一九六七・七・六)


このみ言のように、私たちは、
「神に会いたい。私の求める神が本当におられるのだろうか」
と言って、泣いたことがあるでしょうか。

文先生は、一週間以上そのことだけを思って、
ずっと泣き続けて夜も寝られなかったのです。


 
「目が熟しすぎたカボチャの中身みたいに
 ぐちゃぐちゃになった。
 だから、太陽の光を見ることができなくて、
 目をつぶって過ごした」
(一九六七・七・六)


このとき、先生は本当に泣かれたのです。
そうやって知ることのできた神ですから、
本当に自信を持って言えるのです。

また、神ご自身が心情の神として、
心情圏で私たちに相対してくださるのです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」
 

第三章 父母観(その二)
一 神を知る


真のお父様も、また真のお母様も、
幼少の頃から、天の父母である神様とは、
一対一で通じ合う関係であったといいます。

使命を自覚された以降、
お父様は、その神様がいかなる方であるのか、
宇宙、人間、歴史について
探求していかれ、解明し発見されたということです。

さて、1980年代、可知講師が編纂された
『マルスム』という緑色の小冊子がありましたが、
当時み旨を歩んでいた者にとっては、
まさに『バイブル』でした。

今回、奈田先生が紹介されたお父様のみ言は、
まさにその中に掲載されているものです。

お父様が全身全霊をかけて、
神様をもとめていかれた、
その世界を垣間見ることができます。

お父様が真の神様と出会われたからこそ、
私たちも神様がどのようなお方なのか、
明確に知ることができます。
本当に感謝でしかありません。

今後も奈田先生のみ言から
心に残る部分を不定期に紹介したいと思います。
どうぞお楽しみに。




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posted by ten1ko2 at 09:35 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする