2021年08月22日

「平和の母」の78年と、日本との深いつながり 原理 解明のときに誕生 《阿部先生》



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Blessed Lifeの誌上説教より
阿部先生の説教の前半。

「真のお母様の心情を相続して」
6年前のものです。

真のお母様と真のお父様、そして日本とのつながりとは?!


  
真のお父様は、お母様と共に顕現される


私は実体をもった主体の教主であり、
お母様は対象の教主です。
それで、私は第一教主、お母様は第二教主です。

……先生が霊界に行ったとしても、
お母様が地上にいれば、
霊界と地上界の統一圏ができるので、
いつでもお母様がいる地上に来て
一緒に暮らすことができるのです。


(『真の父母の絶対価値と氏族的メシヤの道』)


このように、お母様は「対象の教主」、
「第二教主」という立場に立たれ、
お父様は霊界に行かれても、
お母様のもとに来て一緒に生活しておられます。

「真の父母」とは、お父様お独りでは成り立ちません。
父母として二人が一つになってこそ成立します。

ですから、真のお母様が地上にいらっしゃるということが、
どれだけ感謝であり、重要でしょうか。


  
お母様の御聖誕を巡る霊妙なる天の摂理


真のお父様の誕生は復帰摂理上、
お生まれになった場所も時も全て摂理的な意味がありました。

真のお母様の誕生についても、
同様の重要な天の摂理がありました。

お母様の御聖誕(1943年)から70年後の2013年、
お母様が「古希」を迎えられると同時に「基元節」が出発しました。

「70数」には、七千年(聖書における六千年人類史+千年王国)の歴史を
70年間で総蕩減したという意味があります。

それでは、1943年という年、いったい何があったでしょうか?

 
お母様の誕生直後のようすについて、
洪順愛(ホンスネ)大母様の証しがあります。


お母様は1943年1月6日早朝4時30分に誕生されました。
……最初のわかめスープを飲んで、お母様を抱いて眠ったのですが、
角の生えた真っ黒なサタンが迫って来て、
お母様を殺そうとしました。

私は『サタンよ退きなさい。
この娘は私にとってとても大切な娘なのに、
おまえがなぜ殺そうとするのか』と叫びました。

(約一か月後、夢に主が現れ)
『心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、
おまえは乳母のようだ。
乳だけちゃんと飲ませて養育しなさい』とおっしゃいました。


(『真の愛の勝利者』)


お母様の御聖誕を巡って、
神様とサタンが奪い合いをしたというのです。

 
また、お母様が誕生された年、
お父様はどこで何をしておられたでしょうか?

日本に留学し、「原理解明」のために精誠を尽くし、
「メシヤとしての内的基台」を立てておられたのです。

真のお父様が「原理」の根本と
サタンの正体や罪状を解き明かされた時に、
真のお母様が誕生されたということです。


  
お母様の70年、日本の70年

真のお母様は過去、現在、未来の全ての女性を
代表した立場でお生まれになりました。

お母様の誕生によって、女性の歴史は大きく変化しました。 

お母様が誕生された時から
「女性の祝福圏」が始まったというみ言があります。


地上に永遠の基台として相対者を立てることが、
統一教会で言えば聖婚式であり、
1960年のきょうでした。

第一次世界大戦以後の70年間は女性の運勢圏です。
……それは70年間、地上で許しを受けた
女性の祝福圏です。

その祝福圏は、真のお母様がこの地上に生まれ、
その真のお母様を中心として
始まらなければなりません。


(『真の御父母様の生涯路程4』)



1943年10月、お父様は日本留学(早稲田大学附属早稲田高等工学校)を終えて
韓国に戻られるとき、

「この地(日本)から神のみ旨のために立ち上がる
青年を立たせてください」


と、日本のために切実に祈られました。

それは日本宣教の内的基台を立てられた瞬間であり、
そのとき、日本宣教の歴史が出発したとも言えます。

お母様の70年と母の国・日本の70年は、
深いところでつながっているようです。

『祝福家庭』76号(2015年 春季号)
誌上説教
真のお母様の心情を相続して

阿部美樹・教会成長研究院 院長(当時)

(blessed lifeより)


「真のお父様は、お母様と共に顕現される」
このことは、はっきり知らなければならないと思います。
お父様ご自身がみ言で語られているわけですから。。。

また、お母様がお生まれになった1943年は、
お父様の日本留学中でした。
つまり、大母様の胎中にいるときから誕生まで、
お父様が日本を実体で愛され、
原理を解明されているその時と重なります。

お父様は、帰国時に日本のために祈りを捧げられておられますが、
そのように留学中も祈られ投入されたことでしょう。

そのようにお父様が日本で精誠を立てておられた
お母様の誕生から70年後の
2013年、基元節が出発している。。。

「真のお父様は、お母様と共に顕現される」
真のお母様の誕生の時から、
真のお父様と真のお母様は、すでに
つながっていたとも思えます。

だとすれば、基元節から8年を経て、この78年間、
日本の天運は、お母様とともにある、
そのことを改めて自覚したいと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 09:50 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月21日

家庭の雰囲気がガラッと変わる、言葉の使い方 「言葉=愛」だった! 《蝶野部長》



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蝶野部長の〜孝情を育む〜教育エッセーより、
「言葉は愛のためにある」です。


愛を伝えるためにあるもの

夫が妻に、妻が夫に語りかける言葉を子女は聞いており、
語る人の気持ちを感じ取っています。

何を話しているかという言葉の内容の前に、
言葉を発しているその人の気持ちが先に伝わっています。

神様は言葉というものを何のために考えられたかといえば、
“愛のため”に考えられました。
愛するためにあるのであり、愛を伝えるためにあるものなのです。

ふだん使っている家族への言葉が、
ただ物事を伝えるだけの言葉になっていないかを
確認することが大切です。


家族に、夕飯ができたので「ご飯できたよ」と伝えるとします。

この時に、“ご飯ができたという事実”だけを
伝えるのではないということです。
そう伝えながらも、本当は食べる人を「愛したくて」
という思いを伝えなければならないのです。

「あなたの健康と喜びを思って(少ない予算の中で申し訳ないけれど)
心を込めて作りました」と。
配偶者や子女を、食事をもって
“愛したい心”で、「ご飯できたよ」というのです。

このように一つ一つの言葉に愛を込めて発していくならば、
聞く側の心も、その愛を敏感に感じるようになります。
ただ生活のための情報を伝えるだけではないのです。

家庭の雰囲気に影響する言葉の使い方

全ての言葉に愛を込めるならば、積み重ねられた言葉は、
受ける側にとって大きな力となり、愛になるのです。

語りかける側が、愛したくて言葉を発しているのであれば、
すでに語っている私自身の心がうれしくなっているということです。
語る側も、受ける側も、愛のために心が開くようになっています。

家族であれば、足音を聞いただけで、その人の心や、
機嫌が分かるという話があるように、
人間は常に外的なものから内的なものを、
自然に感じ取ってしまっているのです。

家族という関係性を考えるとき、生活の中での
ふだんの言葉の使い方が大きい影響力を持ちます。
交わされる言葉によって、家庭の雰囲気は、変わってしまいます。

言葉の内容や外的な手段だけでは限界があった、
人間関係の根底の部分に影響を与える要素となるのです。

言葉自体を、そもそも神様が何のためにつくられたのか
というところまで遡(さかのぼ)って考え、
ふだんの言葉の扱いを大切にしていくべきです。

そうすることで、例えば「愛している」という言葉でさえも、
その言葉だけに依存せず、本当に愛しているという心が
自然に伝わるような関係をつくりあげていきたいと思うのです。

孝情を育む 13
「言葉は愛のためにある」
家庭教育部長 蝶野知徳


我が家でも、子供たちに、呼びかけます。
「御飯できたよ」

今までは、2階に直接呼びかけると
みんなすぐに降りてきましたが、
今はスマホを見ていたり、ゲームをしていたり。。。

なので、年上の子供に電話をして、
バイトや仕事で家にいない子以外、
全員声をかけてもらっています。

「愛をもって・・・」
と言われると、どうでしょうか。。。

言葉に愛を感じれば、
人は寄ってくるといいますから、
子どもたちもそうかもしれません。

時代が変わったと嘆いたり、
声を掛けてもなかなか来ない子どもたちを
非難する思いがあったのですが、
親としても、面倒くさがらずに、
直接、2階に上がって【愛をもって】呼びかける、
そんな心の姿勢があってもいいのではないか、
そう思わされました。





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2021年08月20日

26歳の再臨主が、幼い子どもをよく泣かせたのには、理由があった?! 《金元弼先生》



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金元弼先生の平壌開拓時代の証し。
今回は、「神の祝福と責任分担」と
「自分で完成する」の2コマを続けてどうぞ。

神の祝福と責任分担

涙とお祈り、汗や血を流すといった激しい生活の中にあっても、
先生は主婦の教会員の子供ともよく友達になっておられました。

三歳ぐらいの幼い子供がおりましたが、
先生はしっかり抱いてあげたり、
二歳ぐらいの子供にキスをさせることもありました。

背が低いものですから、なかなかキスができないので、
その子供はとうとう先生のひざの上に上がりました。
しかし先生の口までは届かないのです。

それで考えた挙げ句、今度は先生の胸に向かって
はい上がり始めました。そうしたら届くようになりました。
ところが、今度は先生が頭をぐっと後の方に、
あお向けにして届かないようにしました。

子供は一生懸命にはい上がろうとしてもなかなか届かないので、
結局、先生の耳を引っ張ってキスをしました。


先生は、子供とたわむれながら、
たまには子供を泣かせることもありました。

子供は泣き出すとなかなか泣きやまないときがあります。
先生はそういうときに、かえって泣かせることがあります。
そしたら子供は、気にさわってもっと泣くのです。
次にはもっと泣くように押してやるのです。

子供が、いくら泣いても泣いても、
泣きやむまでは連れていってやらないのです。

先生と子供だけがいるのならば問題はないのですが、
子供の母親もいれば、食口たちが周りに座っているのです。
子供はしきりに自分の母の方に向かって助けを請うて帰ろうとします。

ところが先生は子供が行こうとすれば引っ張るのでした。
いくら泣いても泣いても、お母さんには助けてくれる気はないし、
先生は離してくれないので、子供は仕方ないと思って泣きやむのです。

子供のお母さんは、先生がどういうお方であるか知っていますから、
先生のされるようにして見守っているのでした。

先生は泣きやんだ子供を抱き上げていたわってあげました。
そしてその子供に、泣く前に気持ちが良かった
その状態以上の喜びを感じさせて、母親のところに返してあげたのです。

 
皆さんは、これが何を意味するか分かりますか。

子供との関係を通じて、二つのことを教えているのです。
先生が最初はキスをするようにさせたということは、
神が人間に祝福を与えようとするときに、
祝福を受けるということは、人間の責任分担である
ということを強調されたのです。

それには、蘇生、長成、完成という三階段がある
ということを見せてくださったのです。

ふつう、先生は、子供にただキスしてもいいのに、
なぜ子供をしてこういう三階段を通して、
キスができるようにしたのでしょうか。

それは神が人間を創造して、人間に祝福を与えるときに、
人間は責任分担を通して
祝福を自分のものとすることができるということと同じです。

自分で完成する

その次に、子供とたわむれ、
泣いているのにもっと泣かせて、
泣きやんだ時には、泣く前以上の喜びを与えて
母親のところに返したということから
何を学ぶべきでしょうか。

先生は、子供が泣きやまないでいるので、
泣きたいように泣かせてみるのです。

子供が泣くのは自分の考えであり、それは子供の道といえます。
ですから、自分の道を行きたいだけ行かせるということです。
未練がなくなるまで、全部やらせるのです。

最後には、先生の言われることに子供は従ってきたのでした。
泣いていた時以上のよい状態のところまでにして、
母親のところに返したのです。

先生と子供は、先生と私たちを象徹している
と考えてみたらよいと思います。

教会に入る前、私たちには私たちの道がありました。
そして先生に出会いました。
しかしながら先生のみ言とは異なって、
自分の道を行こうとするときがあります。

先生は、私たちの道を断って、
先生の道と一体化するように導くのです。
ところが、私たちは先生の言われることを受け入れたならば、
死んでしまうような気がして、自分の道を行こうとするのです。

しかし、世の中は既に私たちを受け入れる所ではありません。
そこで、「ああ、どっちへ行くべきか、
こっちへ行くべきか」と考えます。

結局は先生の道と一つになって行くようになるのです。
そうしたときに、自分たちの道を行ったとき以上の
恵みを受けるようになるのです。


また、私たちはメンバーが受け持ったことを
首尾よくできなかったとき、「ああしてはいけない、
こうしてはいけない」と言って忠告したり、
しかったりすることがあります。

しかってこうしてはいけないと言って
終わるのではいけないのです。
しかっても愛を感じて、“本当に私が悪かったのだ。
私を導いてくれて本当にありがたい”と思うような
ところまで導いてあげなければいけないということです。

私たちは、「あなた、それは間違っています。
こういうふうにしてはいけません」
というかたちで話を終わってしまうというのです。

しかし、メンバーにとっては、
自分が正しいと思った期間があったはずです。
そこで、忠告されても、心の中では寂しい感情が残っているのです。

だから、時間を少しおいてからでもいいですから、
自分がこう言ったのは、こういう理由で言ったのだ
と言って、いたわってあげるのです。

しかられても、気持ちが悪いのではなく、気持ちが良かった
というところまで心を高めてあげなければいけないのです。

 
分かりやすくいえば、たたいてばかりいるのではなく、
もんであげることが必要だというのです。

これをしてはいけないと言うのは、たたくのと同じです。
しかられたり、忠告されると、
「やあ、気持ちがいいなあ、私は感謝する」
という心がすぐ起こるものではありません。

皆さん、どうですか?
言われたことが正しくても、
最初は気持ちがいいものではありません。
しかし後になって、感謝の心をもつようになるのです。

感謝するまでの時間は、短い人もいれば、
長くかかる人もいて、差はあるのです。


それはなぜでしょうか?
もちろん、自分で正しくないと思っているときに
言われれば、反対して文句を言う理由はありません。
気持ちが悪いと感じても仕方がないのです。

しかし、自分が良いと思ってやっている時に指摘されて
「感謝である」というのは無理な話です。

でも、結果的によくできなかったことに対して
言われたとするならば、「ああ、ありがたいことだ」
と受け入れるべきなのに、なぜ寂しい心が生ずるのですか。

自分が悪くないときに言われれば、
気持ちが悪いというのは当然です。
気持ちが良いと感じる人がいますか。

 
それは、人間は完成に向かって、誰の干渉も受けないで
直接自分の責任で完成するようになっていたからです。

誰かを通じて神様のみもとに行くのではなく、
自分で直接行くように造られていたのです。

そうであるのに、これでは他の人に言われながら
完成していくのと同じですから、
それが寂しさとなって現れるのです。

自分で試験を受けて、100点を取らなければいけないのに、
人から教えてもらって100点を取ったということと同じです。
これでは100点を取っても気持ちが良くありません。

I 平壌開拓から興南解放
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「神の祝福と責任分担」
「自分で完成する」


信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


お父様と子供のやり取り、面白いですね。
意味をもって、愛を動機として、
子供と戯れていかれるお父様。

み旨の道、というのは、
すべてを捧げつくすことによって、
恩恵を受けることができる、
そのことを教えていただきました。

途中、困難を感じることはあったとしても、
それでも、歩み続けることを通して、
神様は祝福を与えてくださるのだと思います。

また、元弼先生が言われるように、
真の父母様は、私たちが100点を取れるように
答えを教えてくださるのではなく、
私たちが自らの責任で、
勝ち取っていくことができるように
導いてくださっていると思うのです。

すべてを越えてくださり、
つたない私たちをあきらめず
配剤してくださっている
天の父母様、そして真の父母様、
心から感謝します。





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posted by ten1ko2 at 07:06 | Comment(0) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする