2021年08月19日

みなが神の国を見るために、お父様は歩まれた、そしてお母様も 《文ヨナ様3》



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文姸娥(ムン ヨナ)様の2015年の
メッセージの続き、
ヨナニムが感銘を受けた
真のお父様のみ言が紹介されています。


  お父様は「神様の国」で暮らすために犠牲と投入の道を歩まれた

私は、真のお父様が聖和(ソンファ)されて以降、
おそばにいたときには分からなかったことが
少しずつ見えてくるようになった気がするのですが、
それを可能にしてくれたのが、み言の訓読でした。

それでより一層、熱心に訓読をするようになったのです。
そういう中で出会ったのが、次のみ言でした。


「神様は、歴史を通して国を探し求める摂理をしてこられたのです。
国が協助しなければ、神様の人類復帰に対するみ旨は
成し遂げられないからです。

真の宗教を中心とした真の国家が存在しなければなりません。
したがって神様は、ある一時を迎えて
特定の国を探し出されました。
それが選民イスラエルの国とユダヤ教を中心とした歴史でした。

皆様が望まれる神の国とは、どのような国ですか?
その国は、今日、皆様が暮らしているこのような国ではありません。
このような国は、いずれ別れを告げなければならない国です。

私たちには、まだ神の国がありません。
国のない人には本籍地がありません。

国がなければ国籍をもつことができないのです。
国がなければ入籍できる基盤もないということです。
ですから、現世において私たちがすべきことは、
国を探し出すことです。……

国があって初めて、千秋万代の私たちの子孫の前に、
そのまま残してあげられる伝統も残るのであり、
私たちの血と汗を流したすべての努力も残るのであり、
天の苦労を祝賀する記念塔がこの地上にできるのであり、
すべての栄光の痕跡がこの地上に残るのであって、
国を探し立てることができなければ、
すべて無駄になるのです。……

神様の愛は、国がなければ受けることができないのです。
サタンの王権に勝利したのちにこそ、
天の国が成立するからです。

私たちは、神の国を仰ぎ慕います。
それは、愛があるところだからです。
一時的な愛ではなく、時間を超越して
永遠の愛が存続できるところです。……

皆様。私は今、地上に羨(うらや)むものがありません。
世の中のものには関心がない人です。

ただ、『神様が保護できるその国において
死ななければならないのではないか。
私がそのように生きてから逝くことができなければ、
私の生涯は悲惨な生涯ではないか。

死ぬ前にその国を探し出し、一日だけでも
そこで暮らしてから逝かなければならない』
というのが私の願いなのです。

そのような一日のためには、数千日の犠牲を
投入しようという心で歩んでいるのです。
分からない皆様は休んだとしても、私は歩んでいます。……

皆様。私たちの信仰の目標は、果たして何でしょうか。
神の国の民になることです。

その国の民になることができなければ、自由自在に
万民、あるいは万物世界に誇り、
愛を受ける道が現れないのです。
国のない人は、いつも攻撃を受けるようになります。……

イエス様は、イスラエルの不信と迫害によって
彷徨(ほうこう)する立場になり、
霊肉ともの救いを成し遂げることはできませんでした。……

メシヤが成し遂げようとした目的の国が、
イスラエルの不信によって壊れたとき、
イスラエルは滅びました。

したがって、再び来られる再臨主には、
アダムを完成させ、メシヤの使命を完成させる責任があり、
アダムを中心とした家庭、氏族、民族、
国家、世界を完成させる責任があるのです。

神様が私個人を犠牲にしたとしても
感謝しなければならず、また私の家庭と氏族、
民族、国家を犠牲にしたとしても
感謝しなければなりません。

そのような私と国が現れてこそ、
世界はその国によって収拾されるのです。……

皆様。今日、私たちがこの地に生まれた目的は
どこにあるのでしょうか。
国を愛するためです。

神様が今まで摂理されてきた目的も、
その国を愛するためなのです。

主権のない国の国民は哀れです。
それで、イエス様が心配して……、
『何を食べようか、何を飲もうか、あるいは
何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。

あなたがたの天の父は、これらのものが、
ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』
(マタイ六・31〜33)

とおっしゃったのです」
(『平和經』第一篇13「神様の祖国と一つの世界」
〈2002年10月16日〉から)


なぜ国を探さなければならないのでしょうか?
国のない民は保護を受けることができません。
天の父母様のみ意(こころ)のとおりに生きたくとも、
生きることができないのです。

ユダヤ人は国がなかったがゆえに、
ナチス・ドイツによって虐殺されたではありませんか。

では祝福家庭たちは大丈夫でしょうか?

真の父母様がいらっしゃるから、天一国(てんいちこく)が
宣布されて天一国の基盤が内的に立てられたから、
安全でしょうか?

そうでないことは皆様もよくご存じですね。
日々刻々と変化する社会情勢に翻弄されています。

また子女たちも多くがその影響を受け、悩み、さまよっています。
ところが、私たちを保護してくれる
国があるとしたらどうでしょうか?
全く違ってくるはずです。

実は私にも真のお母様のなさることが
理解できないことがあったのです。

でもこのみ言を読んでみると、真のお父様が聖和された後に、
お母様が語られた全てのみ言、そしてお母様が
決定された全てのことがらが、霧が晴れるように再び見えてきたのです。

国際祝福家庭の集い
2015年8月15日東東京教区新宿教会
(『世界家庭』2015年10月号に掲載)

私たちの真の父母様
〜文姸娥様のメッセージ〜
真のお母様は今、何を見詰めていらっしゃるのか(3)
(blessed lifeより)


姸娥様のみ言は、とてもわかりやすいですね。
お父様が神の国、天一国を建てるために、
どれほど精誠を立てて歩まれたのか、
その思いは、お母様にストレートに受け継がれています。

また、近くで侍っておられた姸娥様ですが、
それよりも、み言を訓読することを通じて、
聖和された今のほうが、お父様の心情に
近く触れることができる、というのも、
私たちにとっては、救いのみ言だと思います。

やはり、条件的にではなく、
お父様にお会いする心情で、
訓読することが大事なのだな、と思います。


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posted by ten1ko2 at 07:14 | Comment(0) | ご子女様・真のご家庭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月18日

イスラエル(勝利者)の秘訣、430家庭をどう引っ張っていくのか 《篠崎先生》



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篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『真のアベル』です。


聖書にヤコブの話があります。

『原理講論』ではヤコブは
サタン屈伏の典型路程を
最初に勝利した人物として紹介されています。

ヤコブは、
@パンとレンズ豆のあつもので兄エサウから長子の嗣業(しぎょう)を奪い、
A21年のハラン苦役で家庭と財物を成し、
Bヤボク川で天使との組み打ちに勝利し、
天使に対する主管性を復帰することによって、
「イスラエル」(勝利者、神の戦士)という称号を得ました。
そして、
Cエサウを感動させ、自然屈伏させて勝利したのです。


そのヤコブ路程は象徴的、モーセ路程は形象的、
イエス路程は実体的なサタン屈伏路程であったと説かれています。

旧約聖書のアモス書3章7節に、
「まことに主なる神はそのしもべである預言者に
その隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります。

神様はヤコブ、モーセの生涯を通して、
イエス様が歩むべき道を示してくださったのです。

真のお父様も、ヤコブ、モーセ、イエス様から学び、生涯を歩まれたのです。


真のお父様は、自叙伝『平和を愛する世界人として』
について、次のように語られています。

「私はこの本を通して、
人類のための天のみ旨がどこにあり、
子女である私たち人間が歩むべき道が
どこにあるかを詳しく示しています。

また、天命に従って90年の生涯を歩んできた私の人生を
加減なく収めたこの真の愛の記録を
もう一度精読され、
大いなる悟りを得てくださることを願います」

(「天地人真の父母定着実体み言〈ことば〉宣布天宙大会」から)

自叙伝は、子女である私たちが歩むべき
公式路程を詳しく示しているのです。

私を、真のアベルの本流、すなわちヤコブ、モーセ、
イエス様、真のお父様と続く流れの上に置いてこそ、
神氏族メシヤの勝利の道が見えてくるのです。


祝福家庭がアベルとして責任分担を果たすことが
強調される時ですが、
アベル・カインの復帰の原則は変わりありません。

私たちはアベルであると同時にカインでもあります。
カインとしてアベルの主管を受けて共に
神の元に復帰されていくのです。

 
機関車を例に考えてみましょう。

1台の機関車が一度に多くの貨車を牽引(けんいん)することができますが、
それは連結部に秘密があります。
連結部に隙間が空いているのです。

発車する瞬間は、先頭の1台だけが動きます。
次に、先頭の機関車の力が連結部で2台目に伝えられ、
引っ張られて動き出します。
さらに、動き出した先頭の2台の力が3台目を引っ張ります。

このようにして、わずかな時間差で次々と後続の車両に力が伝わっていき、
すべての貨車が引っ張られていくようになるのです。

もし貨車の連結部に隙間がなければ、
一度に全体を動かさなければならないことになり、
重くてとても動かすことができません。


この先行する車輌(しゃりょう)と後続の車輌の関係こそ、
アベル・カインの原則です。

アベルはカインを連れてきてこそ
神の前に帰ることができるのであり、
カインはアベルを通してこそ神に帰ることができるのです。

これが、神様が人類の最後の一人にまで手を差し伸べ、
救うための復帰の原則なのです。

私たちは、カイン圏を救うために、
神氏族メシヤとして先に導かれた
アベルであり、氏族の父母なのです。

篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)

第四章 伝道のポイント
一、神様の理想を目指して
(一)真のアベルと神氏族メシヤ
真のアベル

氏族伝道講座
喜びと幸せの生活伝道〜み言の原点に立ち返る(25)
(blessed lifeより)


車両の例え話、なるほどな、と思いました。
一度にすべての貨車を引っ張るのではなく、
一両ごと、連結部分を通して引っ張られていく・・・

アベルとして、
しっかりと自分の役目を果たすこと。
カインを神に繋げつつも、
後は、自分が機関車として、
日々ひたすら力を出して走ること
それが自分の責任なのだ、と感じました。





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2021年08月17日

名古屋は最も古い名家 神と一対一、人が見ようとも見なくとも関係ない 《文先生の足跡・名古屋篇》 



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第3次世界路程ご帰還歓迎会で、表情豊かに
身ぶり手ぶりで語られる文鮮明先生
(1972年4月30日、名古屋教会)


日本を愛した文先生の足跡、
名古屋特集。

名古屋には、数々の素晴らしいみ言と
エピソードを残されています。


  名古屋は天宙における最も古い名高い家

1960年代から70年代にかけて、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は
たびたび名古屋を訪問されています。

最初に訪問されたのは1965年2月1日から2日にかけてです。

1日午後1時、特急ひかり号で東京を出発され、
午後3時30分、名古屋駅に到着されました。

数十人の歓迎陣に迎えられた文先生ご一行
(文鮮明先生、崔元福〈チェ・ウォンボク〉先生、
崔奉春〈チェ・ボンチュン〉先生、久保木修己会長、阿部トミ子さん)は
車で名古屋城、テレビ塔等を見学され、
4時半ごろ、教会に到着されました。


名古屋について文先生は

「名古屋は一番古い家、つまり天宙における
 最も古い名高い家。
 それはアダムの家を象徴しており、
 古い故郷を思い出させる」


と語られました。

その後、聖歌「新エデンの歌」を自ら力強くリードされ、
集まった教会員たちは心身ともに満たされた
楽しいひとときを過ごしました。

翌2日の朝、文先生は東山の高台に聖地を決定され、
聖別式を行われました。
教会に戻ると、正午近くからお話をされたり、質問を受けたり。

出発の予定時刻が迫ると、歌う聖歌も涙声に変わります。
「先生は名古屋に来て安心しました」と語られ、
午後2時車中の人となられました。

名古屋では「天下統一之星」
「香花盛園之都」
「嵐の風けば香り高く名高古屋の歌」
という揮毫(きごう)を下さいました。
210817-1965.0202.jpg  210817-1965.0202_2.jpg
東山の高台に聖地を決定(1965年2月2日)     文先生が下さった揮毫(1965年2月2日



  人が見ていなくても神に報告しながらやる

二度目に名古屋に来られたのは
1967年7月8日から9日にかけてです。


「我々は、下がれば下がるほど、
 大きい心情が分かるんだね。

 …父母の心情はかたわの息子に対して、
 立派な息子に対するよりも、
 心情的には近いんだね」


とみ言を語られました。

1969年2月3日には名古屋で
リトルエンジェルスの公演をご覧になっています。


また1972年4月30日から2週間、
名古屋の守山修練所で世界統一十字軍の修練会が行われました。

修練会の中で文先生は
「父母と共に闘おう」(4月30日)、
「自分を信じよう」(5月)という題でみ言を語られました。


「何事をなすにも蕩減だと思って真剣にやる。
 その仕事の中に自分が蕩減を越えるかも
 分からないんだから、すべては真剣にやる。

 人が見ようと見なくともそれは関係ない。
 …人が見ても見ていなくても神と一対一によって
 報告しながら、一歩一歩前進する価値を
 自分なりに積み重ねていくというような
 生活態度が必要ですよ。

 そういうように行く者は、決して堕落とか、
 あるいは絶望とか、そういう立場に絶対おちない」



5月3日には「世界献祭 統一十字軍」
「萬苦勝達」と揮毫されました。


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統一十字軍結成の修練会でみ言を語られる文先生。     喫茶店で休憩される文先生ご夫妻
  500人が参加したため、守山修練所の2階講義室に入りきれず、
  急きょベランダまで広げて急場をしのいだ(1972年5月1日)

 

(光言社『グラフ新天地』388号[2000年11月号]
「日本を愛される文先生の足跡」より)

【文鮮明総裁聖和節記念】
日本を愛した文先生の足跡 6
「名古屋は一番古い家」

(blessed lifeより)


お父様は言葉遊びのように、
地名とか、名前とかに意味を含めて
語られることがたくさんありますね。

み言を尊いものとして侍られる真の父母様なので、
言葉も大事にしていかれるのだな、と思います。

そのようにして、一つ一つの地を愛し、
一人一人を愛してくださいました。

また、名古屋でみ言を語られた内容ですが、
一日一日真剣に歩んでおられるので、
そのようなみ言を語られたのでしょう。

お父様の聖和9周年まで、あと1週間となりました。
お父様に思いを馳せる貴重な
1週間にしていきたいと思うのです。




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