自己牧会プログラム事務局に寄せられた
質問に答えるコーナー。
「祭壇の前で祈るのが苦手です」
☆
昔から祭壇の前に座ってのお祈りが苦手でした。
時には天に通じて祈れることもありますが、
ほとんどは雑念で祈れず、定型文を読み上げているような感じでした。
ところが、自己牧会プログラムのワークを始めてみると、驚くことに、
祭壇の前で祈っているわけではないけれども、
生活の中で天に心が通じている感覚が持てるようになったのです。
しかしそれで満足してしまい、祭壇の前で祈ることが以前より少なくなりました。
これはあまり良くないことですか?
アドバイスをお願いします。
(女性 30代)
☆
家庭祭壇は、天の父母様と真の父母様の象徴ですから、
そこを中心に生活することはとても重要です。
苦手であったとしても、家庭祭壇の前で、朝と夜、
そのほか事あるごとにあいさつして過ごすことを、
これからも意識して実践していただきたいと思います。
一方で、内的な本質としては、食口(シック/家庭連合の教会員)
一人一人が生きた祭壇であるということです。
食口の中にある良心こそ、生きた聖殿なのです。
そこに気付いて、生きた聖殿である良心に侍って生活することが、
天一国時代における信仰生活であると思います。
ですから、お便りのかたが、「生活の中で
天に心が通じている感覚が持てるようになった」というのは素晴らしいことです。
「祈る時間がなければ、歩き回りながら祈りなさい」
(天一国経典『天聖経』1010ページ)というみ言もあります。
生活自体が祈りであることを意識して、
これからも生活の中で神様と通じる体験を積み重ねていってください。
私の心の中にいる神様 80
「お便り&コメント」シリーズH
祭壇の前で祈るのが苦手です
(blessed lifeより)
「お便り&コメント」シリーズH
祭壇の前で祈るのが苦手です
(blessed lifeより)
☆
とても的確なアドバイスだと思います。
質問された方は、
心のワークを実践することを通して、
「生活の中で天に心が通じている
感覚が持てる」ようになった。。。
まさに、『生活信仰』
そのものではないか、と思います。
手前味噌で申し訳ないのですが、
このブログを書くことも、
私個人においては、祈りの時間と
同じようなものだと思っています。
み言を読んで、書くことが閃いて、
すぐに文章を書けるときもあるし、
コメントが導かれないときもあります。
この時間も祈りの時間であると思い、
もっと導かれてコメントが書けるように、
精誠を込めなければなりませんね。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
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無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
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