金元弼先生の平壌開拓時代の証し。
今回は、「神の祝福と責任分担」と
「自分で完成する」の2コマを続けてどうぞ。
☆
神の祝福と責任分担
涙とお祈り、汗や血を流すといった激しい生活の中にあっても、
先生は主婦の教会員の子供ともよく友達になっておられました。
三歳ぐらいの幼い子供がおりましたが、
先生はしっかり抱いてあげたり、
二歳ぐらいの子供にキスをさせることもありました。
背が低いものですから、なかなかキスができないので、
その子供はとうとう先生のひざの上に上がりました。
しかし先生の口までは届かないのです。
それで考えた挙げ句、今度は先生の胸に向かって
はい上がり始めました。そうしたら届くようになりました。
ところが、今度は先生が頭をぐっと後の方に、
あお向けにして届かないようにしました。
子供は一生懸命にはい上がろうとしてもなかなか届かないので、
結局、先生の耳を引っ張ってキスをしました。
☆
先生は、子供とたわむれながら、
たまには子供を泣かせることもありました。
子供は泣き出すとなかなか泣きやまないときがあります。
先生はそういうときに、かえって泣かせることがあります。
そしたら子供は、気にさわってもっと泣くのです。
次にはもっと泣くように押してやるのです。
子供が、いくら泣いても泣いても、
泣きやむまでは連れていってやらないのです。
先生と子供だけがいるのならば問題はないのですが、
子供の母親もいれば、食口たちが周りに座っているのです。
子供はしきりに自分の母の方に向かって助けを請うて帰ろうとします。
ところが先生は子供が行こうとすれば引っ張るのでした。
いくら泣いても泣いても、お母さんには助けてくれる気はないし、
先生は離してくれないので、子供は仕方ないと思って泣きやむのです。
子供のお母さんは、先生がどういうお方であるか知っていますから、
先生のされるようにして見守っているのでした。
先生は泣きやんだ子供を抱き上げていたわってあげました。
そしてその子供に、泣く前に気持ちが良かった
その状態以上の喜びを感じさせて、母親のところに返してあげたのです。
☆
皆さんは、これが何を意味するか分かりますか。
子供との関係を通じて、二つのことを教えているのです。
先生が最初はキスをするようにさせたということは、
神が人間に祝福を与えようとするときに、
祝福を受けるということは、人間の責任分担である
ということを強調されたのです。
それには、蘇生、長成、完成という三階段がある
ということを見せてくださったのです。
ふつう、先生は、子供にただキスしてもいいのに、
なぜ子供をしてこういう三階段を通して、
キスができるようにしたのでしょうか。
それは神が人間を創造して、人間に祝福を与えるときに、
人間は責任分担を通して
祝福を自分のものとすることができるということと同じです。
☆
自分で完成する
その次に、子供とたわむれ、
泣いているのにもっと泣かせて、
泣きやんだ時には、泣く前以上の喜びを与えて
母親のところに返したということから
何を学ぶべきでしょうか。
先生は、子供が泣きやまないでいるので、
泣きたいように泣かせてみるのです。
子供が泣くのは自分の考えであり、それは子供の道といえます。
ですから、自分の道を行きたいだけ行かせるということです。
未練がなくなるまで、全部やらせるのです。
最後には、先生の言われることに子供は従ってきたのでした。
泣いていた時以上のよい状態のところまでにして、
母親のところに返したのです。
☆
先生と子供は、先生と私たちを象徹していると考えてみたらよいと思います。
教会に入る前、私たちには私たちの道がありました。
そして先生に出会いました。
しかしながら先生のみ言とは異なって、
自分の道を行こうとするときがあります。
先生は、私たちの道を断って、
先生の道と一体化するように導くのです。
ところが、私たちは先生の言われることを受け入れたならば、
死んでしまうような気がして、自分の道を行こうとするのです。
しかし、世の中は既に私たちを受け入れる所ではありません。
そこで、「ああ、どっちへ行くべきか、
こっちへ行くべきか」と考えます。
結局は先生の道と一つになって行くようになるのです。
そうしたときに、自分たちの道を行ったとき以上の
恵みを受けるようになるのです。
☆
また、私たちはメンバーが受け持ったことを
首尾よくできなかったとき、「ああしてはいけない、
こうしてはいけない」と言って忠告したり、
しかったりすることがあります。
しかってこうしてはいけないと言って
終わるのではいけないのです。
しかっても愛を感じて、“本当に私が悪かったのだ。
私を導いてくれて本当にありがたい”と思うような
ところまで導いてあげなければいけないということです。
私たちは、「あなた、それは間違っています。
こういうふうにしてはいけません」
というかたちで話を終わってしまうというのです。
しかし、メンバーにとっては、
自分が正しいと思った期間があったはずです。
そこで、忠告されても、心の中では寂しい感情が残っているのです。
だから、時間を少しおいてからでもいいですから、
自分がこう言ったのは、こういう理由で言ったのだ
と言って、いたわってあげるのです。
しかられても、気持ちが悪いのではなく、気持ちが良かった
というところまで心を高めてあげなければいけないのです。
☆
分かりやすくいえば、たたいてばかりいるのではなく、
もんであげることが必要だというのです。
これをしてはいけないと言うのは、たたくのと同じです。
しかられたり、忠告されると、
「やあ、気持ちがいいなあ、私は感謝する」
という心がすぐ起こるものではありません。
皆さん、どうですか?
言われたことが正しくても、
最初は気持ちがいいものではありません。
しかし後になって、感謝の心をもつようになるのです。
感謝するまでの時間は、短い人もいれば、
長くかかる人もいて、差はあるのです。
☆
それはなぜでしょうか?
もちろん、自分で正しくないと思っているときに
言われれば、反対して文句を言う理由はありません。
気持ちが悪いと感じても仕方がないのです。
しかし、自分が良いと思ってやっている時に指摘されて
「感謝である」というのは無理な話です。
でも、結果的によくできなかったことに対して
言われたとするならば、「ああ、ありがたいことだ」
と受け入れるべきなのに、なぜ寂しい心が生ずるのですか。
自分が悪くないときに言われれば、
気持ちが悪いというのは当然です。
気持ちが良いと感じる人がいますか。
☆
それは、人間は完成に向かって、誰の干渉も受けないで
直接自分の責任で完成するようになっていたからです。
誰かを通じて神様のみもとに行くのではなく、
自分で直接行くように造られていたのです。
そうであるのに、これでは他の人に言われながら
完成していくのと同じですから、
それが寂しさとなって現れるのです。
自分で試験を受けて、100点を取らなければいけないのに、
人から教えてもらって100点を取ったということと同じです。
これでは100点を取っても気持ちが良くありません。
I 平壌開拓から興南解放
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「神の祝福と責任分担」
「自分で完成する」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「神の祝福と責任分担」
「自分で完成する」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
お父様と子供のやり取り、面白いですね。
意味をもって、愛を動機として、
子供と戯れていかれるお父様。
み旨の道、というのは、
すべてを捧げつくすことによって、
恩恵を受けることができる、
そのことを教えていただきました。
途中、困難を感じることはあったとしても、
それでも、歩み続けることを通して、
神様は祝福を与えてくださるのだと思います。
また、元弼先生が言われるように、
真の父母様は、私たちが100点を取れるように
答えを教えてくださるのではなく、
私たちが自らの責任で、
勝ち取っていくことができるように
導いてくださっていると思うのです。
すべてを越えてくださり、
つたない私たちをあきらめず
配剤してくださっている
天の父母様、そして真の父母様、
心から感謝します。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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