神明先生のエッセイは以前に紹介しましたが、
先生の導かれた証しを紹介します。
今回は、少年期の証しです。
☆
UTS(米国統一神学大学院)第二代総長を務めた神明忠昭さんは、
長年、真の父母様に直接侍る中で、お父様の願いを受けて、
公的な場で何回か、入教時の証しをしました。
その内容を紹介します。(文責・編集部)
私は、福島県会津地方の姥堂(うばどう)村という所で、
一九四四年に四人兄弟の三男坊として生まれました。
周りは田んぼが広がる所です。
今は喜多方市に合併されています。
十三代前の先祖が会津藩主・上杉景勝公に仕えた侍でしたが、
一六〇〇年の関ケ原の戦いで豊臣勢にくみして敗戦した後、
侍の身分を捨て、農地を開墾して土着して以来、
名字帯刀を許される庄屋・肝煎り(江戸時代の村役人である地方三役の一つ)の
立場でやってきました。
地主だったので、私の祖父と父は学校の教師の仕事をし、
その後は村長になったりしていました。
☆
少年時代に私なりの神体験がありました。
小四の時です。二人の兄は中一と中二でした。
ある冬の日、雪が多く降り、家の屋根にも
たくさん積もったので、二人の兄は祖父に頼まれて、
スコップで屋根の雪を下ろす作業をしました。
それを終えた後、兄たちは祖父から褒められて、
駄賃をもらいました。
私は、二人の兄が駄賃をもらっている現場を、
少し離れた所から偶然に目撃してしまい、嫉妬しました。
私はいつも皿洗いや部屋と廊下の掃除などの手伝いを
誰よりもしていたのに、駄賃など一度ももらったことがなかったからです。
傷ついた私はしばらく悲しみに沈みましたが、
そのうち私の心には、ある考えが生じました。
その考えとは、次に雪がたくさん降れば、
小学生の自分は屋根の雪下ろしは無理でも、
家の周りの道に積もった雪を除く「雪踏み」はできるので、
それをしようということです。
祖父や皆から褒められるためではなく、
それをすること自体が皆のためになり、
良いことだからしようというのです。
そのように思うと、次第に自分の嫉妬心と傷心が
小さくなっていくように感じました。
数日後の早朝、四時頃、起床して外を見ると、
雪が四十センチくらい積もっていました。
私は誰にも気づかれないようにして、
足に「踏み俵」を履いて家の外に出ました。
大人用の踏み俵なので私にとっては、だぶだぶでした。
私の家は屋敷が広いので、東側と西側の村道に通じる
敷地内の道は合計すると百メートル以上はありましたが、
まだ暗がりの朝、雪を踏み締めながら進みました。
そうすると、両脇に雪がかき分けられると同時に、
下にある雪も踏みつけられます。
そのようにして人の歩ける道になるのです。
雪が下に踏みつけられるとき、「キュウ、キュウ」と軽い音が出ますが、
私はその音を聞きながら進む中、このように考えました。
「自分のやっていることは誰からも知られなくていい。
祖父から褒められなくてもいい。駄賃も要らない。
尽くしているという事実は誰も知らなくとも、
その事実は消えずにどこかに覚えられて残ってそれだけでいい」
そのように思うと、私は泣きそうになりました。
誰も聞いてくれないので、それを宙に向かって語りたい気持ちでした。
すると、見よ、何か不思議な力がどこからともなくやってきて、
それによって自分が支えられているのを私は感じたのです。
それで、もっと雪踏みの仕事に打ち込めました。
体は少し汗ばんできて、心は喜びに変わりました。
まだ少しばかり降り続ける冷たい雪が私のほてった顔に当たると、
その喜びはもっと実感されました。
それからだいぶたって、大学生になって入教したときのことです。
あのときに感じた不思議な力が神様の愛であった、ということを知ったのは。
☆
私は、本当は大学に行けない身でした。
大学に行くために通過する普通高校には進学せず、
工業高校に行って早く就職し、親を安心させるように、
と母から懇願されて、工業高校の電気科に進んだのです。
中三のとき、一家の大黒柱であった祖父が
六十五歳の若さで急死したという家庭の事情のためでした。
東京に長期出張していた父に、経済的には頼れませんでした。
それで、私は会津若松市にある会津工業高校に進学しました。
中学時代の同級生の中には、将来大学に進むために
同じ市内の有名な普通高校・会津高校に進学した人が何人かいました。
彼らはさっそうとした姿で通学しました。
しかし私は、同じ通学列車の中でも、独り肩をすくめて
列車の端の方に座り、自分の運命を悲しんでいました。
「ああ、もし普通高校に進んで大学に行けたらな。
彼等に負けないし、誰にも負けないで頑張れるんだがな」
と、ため息をついていたのです。
しかし、これは自分にとって非常にいい体験であったと思います。
なぜならば、それまで期待していた、
普通高校から大学へ行く夢が無残にも破れたので、
人生は自分の思いどおりにはならないということを
十五、六歳の多感なときに強烈に知らされたからです。
後に「原理」を聴いたとき、悠久なる歴史を通して
ご自分の思いどおりにならなかった神様の悲しい事情を知らされて
何時間も泣いたのも、このためであったのではないかと思います。
工業高校電気科では、電気回路の実習だけでなく、
英語、数学、物理、化学、電磁気理論などの全ての科目で、
いつも満点かそれに近い点数を取っていました。
それで、先生がたも驚き、一年生の終わり頃に私の親が学校に呼ばれて、
「おたくの息子さんは絶対に普通高校に進むべきです」と説得されたのです。
(実は、私は中三のとき、福島県主催の高校入学模擬試験では
成績最優秀として、新聞に名前がいつも載っていました)
その結果、工業高校を退学し、心機一転、会津を去り東京に出て、
都立高校(新宿区の戸山高校)を一年遅れて受験して合格し、
そこを通過した後、東大に行くことになりました。
そして、大学で「原理」に出合ったのです。
信仰手記 霊界に導かれて
(「世界家庭」2017.7/P.86〜93)
米国・ベルベディア教会 神明忠昭(七七七家庭)
(「世界家庭」2017.7/P.86〜93)
米国・ベルベディア教会 神明忠昭(七七七家庭)
☆
原理に出会う前に、神様がすでに導いていておられた・・・
そんなことを感じました。
また、ために生きる素晴らしさも
身をもって実感しておられます。
ご苦労されて東大に入学された
その経緯も神様の心情を味わうための
ご経験であったことを感じます。
やはり、物事のとらえ方が重要だと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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