2021年09月01日

私たちに未来はあるか?! 永遠に成長する人、発展し続ける教会になるために 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「永遠性のある基盤をつくる」です。


教会勢力は、教会長によって、ある期間が過ぎると、
それ以上は発展できなくなる教会があります。

個人の信仰勢力が、ある期間が過ぎたのち、行き詰まるのと同じく、
教会自体も、三十名や五十名ぐらいで止まったり、
人によって百名とか百二十名、ある数までいって、
それ以上伸びないのです。

百二十名ぐらいの信者をもてば、理想的な教会です。

伝道師はみな若く、また、自分自身が
人を指導できるぐらいの基礎がなかったり、
知識的にもそうであったりします。

また、国内の信者の統計をとってみれば、高卒の人が多く、
それから先祖が良くて霊的な協助が良かった人、
その本性が良くてこの理念によって召命されて、
今まで走ってきた人などが多いのです。

それで、これからの問題について考えてみましょう。


まず、個人がどれだけ全体に影響を及ぼす
原動力者になるかということです。

教会の教会長自身も、一つの核心となって、
無限に原動力をもつ者にならなければなりません。

私たちは一生涯、原動力を発動する基盤を
つくっていかなければならないのに、ある期間が過ぎたら、
もう行き詰まってしまう人が多いのです。

だから一生涯、地上にいる間、神に必要な者、
神になくてはならない者となるには、
どういう自分の内容と位置を獲得すべきか、という問題です。


パウロとイエス様は、死の十字架にまで、
使命にあふれてその生涯を終えました。
アルファとオメガが同じだったという生涯をもっています。

私たちは、そうではないのです。
私たちは、ある期間が過ぎれば無用な者になってしまうのが、
私たちのくせです。

三年なら三年間必要な者となって、そのあとは、
何となく変化してしまうのです。
それで神は、それ以上続けられず、
信仰人物を新たに選択されるのです。


そこで私たちに、存在している今が、
どれほど続くかということが問題です。

今日に至った私たちは、永遠に続けられるかという問題です。
どれほど未来性のある仕事をやっているか、
永遠性のある人格か、永遠性のある基盤をつくっているか、です。

私たちは今、資本金をもって、もうけているのでしょうか、
マイナスになっているのでしょうか。
私たちの存在基台、人格的な影響力は増えているでしょうか。

一生涯生きながら財産を増やせば、
支払うのも増えるのですが、結果的に増えるのです。

泉から水をいくら使っても、尽きないように、
私たちの信仰もそうでなくてはなりません。
泉は、いくら使っても、一定の水をいつも保っているのと同じく、
いくら私たちが心を尽くし、誠意を払っても、
自分の出発当時の信仰自体、姿勢は維持しなければならないのです。

いくらその苦労、危険を経験しても、
いくら自分が公のために使われても、
自分はもうけなくてはならないのです。
しかし、すぐ私たちは赤字になってしまうのです。


なぜかというと、そのお金は、涙なしにもうけたものだからです。
お金というものは、汗なしにもうけたものは、使いやすいのです。

自分の手で成功した人は、使いながらも、
もうけるという一方向性があることを見て、ポンと使うのに、
汗なしにもうけたお金を持っている人は、使う道しか見えないのです。
これを使った結果、どれほど回ってくるという道を知らないのです。

それと同じく、私たちのもっている真理は、
勝利したのちの真理でなく、私たちのもっている恵みは、
自分がサタンに勝利して得たものではなく、
人からただ恵沢でもらったものなのです。

だから、へたをすると資本金までみな使ってしまいやすい
立場に立っているのです。
だから三年、七年たつと、赤字になって、損をしてしまうのです。
それが、今まで信仰人物たちが失敗したやり方なのです。


だから私たちは、どういう経験をしても、
どういうつらい味を味わっても、
自分がもうけながら支払わなくてはならないのです。

払う時には、自分も誠意を払うとか、何のために働くとか、
何のためにやるとか、何かそれ以上のものを
もうける見込みがあった時に、自分が涙を流しながら
汗を流さなくてはならないのに、ただもう、
これが正義だ、というところばかりねらってやったのちには、
みんな使ってしまいます。

そういう面を私たちは、利口に、原理的に
危険を経験するとか、冒険するとかするのです。

2.個人と教会の発展のために
「永遠性のある基盤をつくる」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


泉にたどり着くことができれば、
永遠の水を得ることができる。。。

私たちにとって、「霊的な泉」は、
神様であり、真の父母様であると思います。

天の父母様と真の父母様は、
永遠の水を湛えた
真の愛と心情の源泉でもあるといえます。

信仰の道にいながらも、
霊的に枯渇しているとするなら、
「生きた」神様、父母様に
出会っていない、ということかもしれません。

先週の土日、韓国においては、2日間かけて
「天寶家庭孝情証詞大祝祭」の場をもちました。

特に土曜日は24家庭の証しがあり、
お母様は、最初から最後まで、丸一日、
全部聞かれたということです。

お母様の心情は泉のように
真の愛が果てることなく湧いてくるようです。

また、お母様ご自身、天寶家庭に向けての取り組みに、
最大の関心をもっておられるのでしょう。
やはり、最前線の歩みを
天は願われているのだ、と感じます。




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posted by ten1ko2 at 08:40 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする