李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「永遠性のある基盤をつくる」です。
☆
教会勢力は、教会長によって、ある期間が過ぎると、
それ以上は発展できなくなる教会があります。
個人の信仰勢力が、ある期間が過ぎたのち、行き詰まるのと同じく、
教会自体も、三十名や五十名ぐらいで止まったり、
人によって百名とか百二十名、ある数までいって、
それ以上伸びないのです。
百二十名ぐらいの信者をもてば、理想的な教会です。
伝道師はみな若く、また、自分自身が
人を指導できるぐらいの基礎がなかったり、
知識的にもそうであったりします。
また、国内の信者の統計をとってみれば、高卒の人が多く、
それから先祖が良くて霊的な協助が良かった人、
その本性が良くてこの理念によって召命されて、
今まで走ってきた人などが多いのです。
それで、これからの問題について考えてみましょう。
☆
まず、個人がどれだけ全体に影響を及ぼす
原動力者になるかということです。
教会の教会長自身も、一つの核心となって、
無限に原動力をもつ者にならなければなりません。
私たちは一生涯、原動力を発動する基盤を
つくっていかなければならないのに、ある期間が過ぎたら、
もう行き詰まってしまう人が多いのです。
だから一生涯、地上にいる間、神に必要な者、
神になくてはならない者となるには、
どういう自分の内容と位置を獲得すべきか、という問題です。
☆
パウロとイエス様は、死の十字架にまで、
使命にあふれてその生涯を終えました。
アルファとオメガが同じだったという生涯をもっています。
私たちは、そうではないのです。
私たちは、ある期間が過ぎれば無用な者になってしまうのが、
私たちのくせです。
三年なら三年間必要な者となって、そのあとは、
何となく変化してしまうのです。
それで神は、それ以上続けられず、
信仰人物を新たに選択されるのです。
☆
そこで私たちに、存在している今が、
どれほど続くかということが問題です。
今日に至った私たちは、永遠に続けられるかという問題です。
どれほど未来性のある仕事をやっているか、
永遠性のある人格か、永遠性のある基盤をつくっているか、です。
私たちは今、資本金をもって、もうけているのでしょうか、
マイナスになっているのでしょうか。
私たちの存在基台、人格的な影響力は増えているでしょうか。
一生涯生きながら財産を増やせば、
支払うのも増えるのですが、結果的に増えるのです。
泉から水をいくら使っても、尽きないように、
私たちの信仰もそうでなくてはなりません。
泉は、いくら使っても、一定の水をいつも保っているのと同じく、
いくら私たちが心を尽くし、誠意を払っても、
自分の出発当時の信仰自体、姿勢は維持しなければならないのです。
いくらその苦労、危険を経験しても、
いくら自分が公のために使われても、
自分はもうけなくてはならないのです。
しかし、すぐ私たちは赤字になってしまうのです。
☆
なぜかというと、そのお金は、涙なしにもうけたものだからです。
お金というものは、汗なしにもうけたものは、使いやすいのです。
自分の手で成功した人は、使いながらも、
もうけるという一方向性があることを見て、ポンと使うのに、
汗なしにもうけたお金を持っている人は、使う道しか見えないのです。
これを使った結果、どれほど回ってくるという道を知らないのです。
それと同じく、私たちのもっている真理は、
勝利したのちの真理でなく、私たちのもっている恵みは、
自分がサタンに勝利して得たものではなく、
人からただ恵沢でもらったものなのです。
だから、へたをすると資本金までみな使ってしまいやすい
立場に立っているのです。
だから三年、七年たつと、赤字になって、損をしてしまうのです。
それが、今まで信仰人物たちが失敗したやり方なのです。
☆
だから私たちは、どういう経験をしても、
どういうつらい味を味わっても、
自分がもうけながら支払わなくてはならないのです。
払う時には、自分も誠意を払うとか、何のために働くとか、
何のためにやるとか、何かそれ以上のものを
もうける見込みがあった時に、自分が涙を流しながら
汗を流さなくてはならないのに、ただもう、
これが正義だ、というところばかりねらってやったのちには、
みんな使ってしまいます。
そういう面を私たちは、利口に、原理的に
危険を経験するとか、冒険するとかするのです。
2.個人と教会の発展のために
「永遠性のある基盤をつくる」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「永遠性のある基盤をつくる」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
泉にたどり着くことができれば、
永遠の水を得ることができる。。。
私たちにとって、「霊的な泉」は、
神様であり、真の父母様であると思います。
天の父母様と真の父母様は、
永遠の水を湛えた
真の愛と心情の源泉でもあるといえます。
信仰の道にいながらも、
霊的に枯渇しているとするなら、
「生きた」神様、父母様に
出会っていない、ということかもしれません。
先週の土日、韓国においては、2日間かけて
「天寶家庭孝情証詞大祝祭」の場をもちました。
特に土曜日は24家庭の証しがあり、
お母様は、最初から最後まで、丸一日、
全部聞かれたということです。
お母様の心情は泉のように
真の愛が果てることなく湧いてくるようです。
また、お母様ご自身、天寶家庭に向けての取り組みに、
最大の関心をもっておられるのでしょう。
やはり、最前線の歩みを
天は願われているのだ、と感じます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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