神の悲しい心情、親としての苦しみを
味わい知らされた時には、
木を抱き締めていつまでも
いつまでも泣き続けた。
一言そのときの心情に触れるものがあったら、
先生は涙を禁じえない。
1970.10.13
文鮮明
☆
味わい知らされた時には、
木を抱き締めていつまでも
いつまでも泣き続けた。
一言そのときの心情に触れるものがあったら、
先生は涙を禁じえない。
1970.10.13
文鮮明
☆
奈田先生の「父母と共なる生活」から
『神と出会う所』です。
☆
さて、そうやって出会った神は
一体どこにおられたのかが次の問題です。
一体どういう所で神と出会うのでしょうか。
「神は不幸な神か、幸福な神か、悲しんでおられる神か。
もし悲しみ、苦しんでおられる神なら、いつからそうなったのか」と、
文先生は研究されたといわれます。
知れば知るほど、かわいそうな神であったのです。
「神は今地獄を解放するために、
下の方で寝たり起きたりしているのだろう」(一九六七・六・三〇)
こういう結論だったというのです。
神は高いところで法座におられるものと思い、
アーメンと言ってみんな十字を切って
神にお祈りをするけれども、そうではないのです。
「それより自分の手先、
足先に語りかける神に対して、
同情をもってそれを助けて、懐かしい、
自分の親にしたいという心で働くならば、
その人は高い神そのものを
自然とつかむようになるだろう」(一九六七・六・三〇)
神のそういう位置に立つこと、相対圏に立つことが、
神に出会う早道だというのです。
ですから、苦労のないところでは神に出会えないのです。
☆
そこで、苦難の頂点や十字架上、生死の境で神と出会う
というのが、今までのクリスチャンや宗教者が
通ってきた必然の道になってしまったのです。
それを見ても分かるように、神は決して幸福な神ではないのです。
自分を生んでくださったけれども、
親としての神は、決して幸せではないのです。
心が満たされ、満足しておられる神ではないのです。
本当に喜んで笑い声をあげたいと思ったけれども、
実際には悲しみの絶頂にある神である
ということを知ってみたら、
神に自然に出会えるようになるのです。
「この罪悪世界において、
神に至る道はたった一つしかない。
それは、何ものをもいとわず、
罪の代価として犠牲になることである。
自ら進んで、天のために犠牲になろうと
する者にしか神は現れることができない」
必然的に、このようになってしまったのです。
☆
「先生は神に祈りました。
『善なる神の目的に生き、神の心情を
中心とした善なる神の人格をもった、
真なる神が求める人、
その人はいずこにおりますか。
過去におりましたか?』。
『いない』。
『現在、今おりますか?』。
『いない』。
『これから先、未来におるでしょうか?』。
『私は知らない……』」(一九六五・一・二八)
「そうして天の心情の深奥に触れた」(一九六七・七・六)
☆
先生は、神に尋ねて、尋ねていかれて、
神の心情と触れ合った時に、
どういう心情であられたかというと、
「神の悲しい心情、親としての苦しみを
味わい知らされた時には、
木を抱き締めていつまでもいつまでも泣き続けた」(一九七〇・一〇・一三)
「あなたたちは、先生に対して一言
そのときの心情に触れるものがあったら、
先生は涙を禁じえない。
神もそうだ。
先生と神と抱き合って泣いた悲しさは、
地上の人々は誰も知らない。
その深い神への心情は、計り知れない。
それを思うと体の細胞がしびれるようだよ。
そういう心情で
神への孝行の道を進んでいることが、
あなたたちに分かる?」(一九七〇・一〇・一三)
このような先生なのです。
「いくら自分が暗い立場に立ったとしても、
悩めるどん底の立場に陥っても、
自分における苦労は限られた苦労である。
一瞬の苦しみは誰でも忍ぶことができる。
しかし、六〇〇〇年の神の苦労は我々人間に
どうにもこうにも分かりきれるものではない。
堕落以後今まで続いてきたその神の苦しみは、
耐え忍びえる苦しみではない。
しかし、神はそれを耐え忍んできた」(一九六七・六・一二)
先生はそういう神の姿に至ったのです。
それで先生はどんなに苦しくても、
それを瞬間に喜びに変えてでも、
神様を慰めるという心情圏に立ちうるのです。
それは先生がご自分で発見された神だからです。
私たちも自分でそのような神を発見しなければなりません。
ですから、先生に対してその時の心情に
相対するものが少しでもあったら、
「それはいつまでも絶対に忘れない。涙を禁じえない」
と、おっしゃるのです。
☆
文先生は世界宣教のメンバーからの手紙はとても大事にされ、
宣教国が地球の裏側だと、たとえ夜であっても、
苦労させていることを思うと眠ることができないと言われます。
文先生ご自身が人間的に苦労させてすまない
というのではなく、神ご自身が何千年もの苦労を
経験してこられ、悲しんでおられるので、
神の心情圏に先生がすっぽり入っておられるのです。
その立場から、兄弟姉妹の苦労している心情圏に出合うと、
文先生はそれを離すことができないのです。
ですから、喜びの神と共に、こういう悲しい、つらい、
苦労の神というものを知らなければ、
神の心情を本当につかむことはできないのです。
奈田壽美子
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
第三章 父母観(その二)
二 神と出会う所
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
第三章 父母観(その二)
二 神と出会う所
☆
「苦労は買ってでもせよ」とよく言われますね。
一般的にもそういう風に言われますけれど、
信仰の道においてもその言葉が当てはまるようです。
神様は、苦労の神様、涙の神様なので、
神様の心情に触れることができるから、
そういう意味では、買ってでもすべきなのでしょう。
ただし、「苦労」は神様の心情に近くなることができますが、
神様に到達しないと、逆に恨みになってしまいます。
ただ苦労したらいいというのではなく、
どこまでも感謝が大切なのかと思います。
真の父母様は、あまりにも多くの苦労をされましたが、
しかし、神様のご苦労を思ったら、慰労してさしあげたい、
その思いで、さらに苦労の道を行かれる真の父母様です。
そんな思いを少しでも相続していきたいです。。。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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