奈田先生の「父母と共にある生活」
今回は、『祭物精神(1)万物の蕩減時代』。
奈田先生にアブラハムが(霊的に)現れた
という証しを交えたお話です。
☆
祭物精神
次に、祭物精神について、第一章で述べた内容を
もう少し詳しく学んでみようと思います。
歴史を細かく見てみると、苦労、犠牲、十字架
というのは祭物精神になるのです。
旧約時代には万物がささげられてきたのです。
万物自体が人間の復帰のために、喜んで血を流し、
犠牲になってきたことを知らなければなりません。
先生はアダムが堕落によって失ったもの、
それが万物と実体と心情だと、次のように語っておられます。
堕落によって人間はどういう結果に
なってしまったかというと、
まず万物を失ってしまった。
それから実体がサタンに汚されてしまった。
それから心情を奪われてしまった。
これらをみんな蕩減復帰しなければならない。
いわゆる物の問題、実体の問題、心情の問題、
これらを完全に神を中心として結束させて、
完成期間を通り抜けないというと、
完成基準に到達することができない。
これが我々の原理原則である」
☆
(1)万物の蕩減時代
ここで、万物の蕩減時代について学んでみましょう。
アブラハムが、三種の供え物をするように
神から言われた時、アブラハムは
いい加減に供え物をしたでしょうか。
アブラハムは、ノアの時代にしたことを全部踏襲して、
神からの絶対的命令として受け止めて、
とても緊張して供えたのです。
しかも、自分の身体以上の牛を屠て、
み言のとおりに、裂いて血を流して焼いて、
「神が喜ばれたかどうか。これでいいだろうか」
と気にしながら、本当に神を畏れる心で供え物をしました。
しかし、それは成功しませんでした。
☆
そこで、これは私の体験なのですが、
以前アブラハムが私に現れて、
「なぜ自分の子孫が四〇〇年間もさまようことになったのか。
他民族に仕えていかなければならなくなったのか。
それが分からない」と言うのです。
アブラハムは、激しく泣いて、
「何か失敗だったか、分からなかった」と言うのです。
何千年という間、分からなかったのです。
目も鼻も口も、私の体を全部使って泣くので、
その思いが胸に迫ってきました。
それで周藤健先生が、アブラハムにその理由を
一生懸命に説明したのです。
説明を聞いて、「本当にそうだったのか」
とアブラハムは言いました。
私は、「すごいな! アブラハムがそんな悩みを
今までだれにも打ち明けられず、
理由を聞くこともできなかったのに、
四〇〇〇年目に現れたこのみ言で、
初めてその悩みが解決できたのだ。
そのことを思ったら、私の苦しみなんて何でもないことだ」
と思いました。
☆
アブラハムにしてもそうですが、歴史上には、
神から捨てられてきた人々がたくさんいます。
ノアは、息子のハムの失敗のゆえに捨てられたのです。
モーセもそうです。
あれほどの苦労をして、イスラエル民族をエジプトから
導き出したのに、自分はカナンの地に入れませんでした。
モーセが神に、「自分は語る人ではないので
イスラエル民族を率いていくことはできません」と言うと、
「おまえに口を授けたのはだれか?」と神は言われて、
モーセを強引に引っ張っていきました。
モーセはそういう運命圏に生まれついていたのです。
神はそのように運命づけておいて、召命して、
自覚させて、引っ張り上げて、荒野で訓練して、
エジプトヘ行ってまた訓練して、
ようやくイスラエル民族を導き出してこられたのです。
ところが、荒野で人々が裏切り、モーセは
どうしていいか分からなくなってしまうのです。
モーセはいつもそういう窮地に立たされるのです。
☆
「神様、助けてください。もうこれ以上私にはできません」と、
モーセは何度も言いました。
「この民のことなど、私はもう知らない」と言うのですが、
神に慰め、励まされ、「それでもやってほしい」と言われます。
しかし、神が最後には、「いつまでこの民は私を悔るか!」
とイスラエル民族を怒るのです。
すると今度はモーセが「慈しみに富む神だと
言われたあなたではないですか」と、とりなすのです。
モーセ路程には、そのような神とのやりとりが多いのです。
そういう中で、最後には
「カナンの地を、目に見ることはできるけれども、
踏むことはできない」と、モーセに言い渡さなければならなかった
神の心情は本当につらかったに違いありません。
☆
ですから、過去の義人たちが通ってきた路程というのは、
万物を供えさせて、神を畏れることを教える形状的なものから、
原則と愛とを組み分けながら心情的に引っ張ってこられる
実体時代へと移行してくるのです。
実体的蕩減時代とは、そういう意味なのです。
そこで、モーセ路程で中心に立ったモーセ自体が苦しんだように、
新約時代には、イエス様ご自身が祭物になってしまったのです。
それはすべて、人々の不信仰のゆえだったのです。
奈田壽美子
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(1)万物の蕩減時代<
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(1)万物の蕩減時代<
☆
さらっと紹介されていますが
すごい証しですね。
周藤先生から聞いた覚えがありますが、
奈田先生の証しだったのですね。
あらためて復帰歴史の中心人物たちは、
神様の前に真なる信仰を立てて
歩んできたんだなと思いました。
そして、彼等は、真理のみ言を知らず、
その時代の限られた勝利圏、恩恵の中で歩んだのです。
原理講論において、復帰原理を通して、
「中心人物は責任を果たせなかった」
と教訓を学ぶので、どちらかというと、
マイナス的な観点で、見つめてしまいがちですが、
そう思ってはいけないと思わされます。
アブラハムは「信仰の祖」と言われる
素晴らしい義人でしたが、4000年間、自分の失敗を
知ることができませんでした。
私たちは全ての真理を
真の父母様を通じて、知ることができました。
どれだけありがたい立場にいるでしょうか。
そのことに心から感謝しつつ、
昔の聖人義人たちに思いを馳せながら、
歩んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)