2021年09月14日

(体験談)アブラハムが私に現れて泣いた証し 「何千年も何を失敗したか分からなかった」 《奈田先生》



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奈田先生の「父母と共にある生活」
今回は、『祭物精神(1)万物の蕩減時代』。

奈田先生にアブラハムが(霊的に)現れた
という証しを交えたお話です。

祭物精神

次に、祭物精神について、第一章で述べた内容を
もう少し詳しく学んでみようと思います。

歴史を細かく見てみると、苦労、犠牲、十字架
というのは祭物精神になるのです。

旧約時代には万物がささげられてきたのです。
万物自体が人間の復帰のために、喜んで血を流し、
犠牲になってきたことを知らなければなりません。

先生はアダムが堕落によって失ったもの、
それが万物と実体と心情だと、次のように語っておられます。


堕落によって人間はどういう結果に
なってしまったかというと、
まず万物を失ってしまった。

それから実体がサタンに汚されてしまった。
それから心情を奪われてしまった。

これらをみんな蕩減復帰しなければならない。
いわゆる物の問題、実体の問題、心情の問題、
これらを完全に神を中心として結束させて、
完成期間を通り抜けないというと、
完成基準に到達することができない。

これが我々の原理原則である」


(1)万物の蕩減時代

ここで、万物の蕩減時代について学んでみましょう。

アブラハムが、三種の供え物をするように
神から言われた時、アブラハムは
いい加減に供え物をしたでしょうか。

アブラハムは、ノアの時代にしたことを全部踏襲して、
神からの絶対的命令として受け止めて、
とても緊張して供えたのです。

しかも、自分の身体以上の牛を屠て、
み言のとおりに、裂いて血を流して焼いて、
「神が喜ばれたかどうか。これでいいだろうか」
と気にしながら、本当に神を畏れる心で供え物をしました。
しかし、それは成功しませんでした。


そこで、これは私の体験なのですが、
以前アブラハムが私に現れて、
「なぜ自分の子孫が四〇〇年間もさまようことになったのか。
他民族に仕えていかなければならなくなったのか。
それが分からない」と言うのです。

アブラハムは、激しく泣いて、
「何か失敗だったか、分からなかった」と言うのです。
何千年という間、分からなかったのです。

目も鼻も口も、私の体を全部使って泣くので、
その思いが胸に迫ってきました。

それで周藤健先生が、アブラハムにその理由を
一生懸命に説明したのです。
説明を聞いて、「本当にそうだったのか」
とアブラハムは言いました。

私は、「すごいな! アブラハムがそんな悩みを
今までだれにも打ち明けられず、
理由を聞くこともできなかったのに、
四〇〇〇年目に現れたこのみ言で、
初めてその悩みが解決できたのだ。
そのことを思ったら、私の苦しみなんて何でもないことだ」
と思いました。


アブラハムにしてもそうですが、歴史上には、
神から捨てられてきた人々がたくさんいます。
ノアは、息子のハムの失敗のゆえに捨てられたのです。

モーセもそうです。
あれほどの苦労をして、イスラエル民族をエジプトから
導き出したのに、自分はカナンの地に入れませんでした。

モーセが神に、「自分は語る人ではないので
イスラエル民族を率いていくことはできません」と言うと、
「おまえに口を授けたのはだれか?」と神は言われて、
モーセを強引に引っ張っていきました。

モーセはそういう運命圏に生まれついていたのです。
神はそのように運命づけておいて、召命して、
自覚させて、引っ張り上げて、荒野で訓練して、
エジプトヘ行ってまた訓練して、
ようやくイスラエル民族を導き出してこられたのです。

ところが、荒野で人々が裏切り、モーセは
どうしていいか分からなくなってしまうのです。
モーセはいつもそういう窮地に立たされるのです。


「神様、助けてください。もうこれ以上私にはできません」と、
モーセは何度も言いました。

「この民のことなど、私はもう知らない」と言うのですが、
神に慰め、励まされ、「それでもやってほしい」と言われます。
しかし、神が最後には、「いつまでこの民は私を悔るか!」
とイスラエル民族を怒るのです。

すると今度はモーセが「慈しみに富む神だと
言われたあなたではないですか」と、とりなすのです。
モーセ路程には、そのような神とのやりとりが多いのです。

そういう中で、最後には
「カナンの地を、目に見ることはできるけれども、
踏むことはできない」と、モーセに言い渡さなければならなかった
神の心情は本当につらかったに違いありません。


ですから、過去の義人たちが通ってきた路程というのは、
万物を供えさせて、神を畏れることを教える形状的なものから、
原則と愛とを組み分けながら心情的に引っ張ってこられる
実体時代へと移行してくるのです。

実体的蕩減時代とは、そういう意味なのです。

そこで、モーセ路程で中心に立ったモーセ自体が苦しんだように、
新約時代には、イエス様ご自身が祭物になってしまったのです。
それはすべて、人々の不信仰のゆえだったのです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(1)万物の蕩減時代<


さらっと紹介されていますが
すごい証しですね。
周藤先生から聞いた覚えがありますが、
奈田先生の証しだったのですね。

あらためて復帰歴史の中心人物たちは、
神様の前に真なる信仰を立てて
歩んできたんだなと思いました。

そして、彼等は、真理のみ言を知らず、
その時代の限られた勝利圏、恩恵の中で歩んだのです。

原理講論において、復帰原理を通して、
「中心人物は責任を果たせなかった」
と教訓を学ぶので、どちらかというと、
マイナス的な観点で、見つめてしまいがちですが、
そう思ってはいけないと思わされます。

アブラハムは「信仰の祖」と言われる
素晴らしい義人でしたが、4000年間、自分の失敗を
知ることができませんでした。

私たちは全ての真理を
真の父母様を通じて、知ることができました。
どれだけありがたい立場にいるでしょうか。

そのことに心から感謝しつつ、
昔の聖人義人たちに思いを馳せながら、
歩んでいきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 09:28 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする