日本を愛した文先生の足跡
今回は、高松特集です。
☆
「新しい国連が必要なんだね」
1965年2月3日午後10時、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生ご一行、
西川勝先生、久保木修己会長は高松教会に到着されました。
当時、教会は古びた一戸建ての家でしたが、
四国全体から集まってきた教会員が、隅々まで清掃し、待っていました。
文先生は到着後すぐに、これからの世界的な摂理について語られました。
「過去の人のできなかった、
より以上の蕩減を克服してこそ
勝利することができるのである」。
「何か質問は?」。
すると長野昭秀さん(777組)が
「国連は使命を果たすことができるのですか?」と尋ねました。
文先生は
「新しい国連が必要なんだね」
と答えられました。
☆
文先生が高松の教会に来られたとき、ある壮年のかたが
教会を訪ねてきました。
そのかたは統一教会の青年たちを評して
「美人で田に舞い降りた鶴のようだ」と言うのでした。
文先生ご一行は、深夜12時を回り、
午前1時に「月光」という旅館に向かわれました。
4日、朝食を取りながら、文先生を囲んでの
和動会、質問会が始まりました。
質問は具体的な問題にまで発展し、
文先生はその一つ一つに丁寧に答えられました。
その後、
「天恵仰慕する高松の鶴
勇飛天高統一勇士に似る」
と揮毫(きごう)してくださいました。
☆
命懸けで聖地を決定
それから屋島山に向かい、瀬戸内海を一望できる
屋島山頂の雑木林の一角に聖地を定められました。
文先生の背広には木の葉がたくさんついていました。
聖地を決定する際、西川先生は文先生を
景色のよい所に案内されようとしましたが、
文先生は非常に怒られたのです。
「先生は景色を見に来たと思うのか」。
その言葉を聞いて、文先生は
命懸けで聖地を決定するために来られたことが分かりました。
東西南北の4か所に人が立ち、
聖別と祈祷によって聖地が決定されました。
続いて文先生ご一行は香川県庁に向かわれ、
その後、3時半発のフェリーで広島に向かわれました。
(参考/「成約新聞」1965年3月5日特集号、
「ファミリー」 1986年4月号、「ファミリー」 1997年10月号)
(光言社『グラフ新天地』395号[2001年6月号]「日本を愛される文先生の足跡」より)
日本を愛した文先生の足跡(11)高松
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=12352
blessed life
「ファミリー」 1986年4月号、「ファミリー」 1997年10月号)
(光言社『グラフ新天地』395号[2001年6月号]「日本を愛される文先生の足跡」より)
日本を愛した文先生の足跡(11)高松
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=12352
blessed life
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個人的には、四国に一度も行ったことがないので、
いつかは訪れたいところです。
お父様は「新しい国連が必要なんだ」
と当時から国連について語られていたことを初めて知りました。
世界をひとつにするために、
お父様の頭の中では、さまざまな摂理が
進められていたのだと思いました。
また聖地を決定される際のお父様のお姿。。。
命懸けということは、
その聖地の一つひとつが、生死を分ける
大切なものであったのでしょう。
その思いをしっかり胸に刻み付けていきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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