李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「神の立場から誠意を尽くす」です。
☆
蕩減復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、
いつかは利益が戻ってくるんだという自信をもって、
苦労するとか、迫害を受けるとか、損するとか、いじめられるとかするのです。
何かもうけがあるという原則的な立場に立ってしなくては、
結局、結果的には人に笑われたり、人に対して恥ずかしくなってしまうのです。
そういう面を、信仰人物たちから学ばなくてはならないのです。
☆
洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして
民族的な立場の人物になっていたのですが、
イエス様と付き合った時には、人間的に付き合ったのです。
どうして心情的に付き合わないで、人間的に比較したのでしょうか。
イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、
結果的に見て、付き合ったのです。
歴史的なこの人間の過去を知らないのです。
神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないのです。
表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、
洗礼ヨハネの立場からは、授受ができなかったのです。
自分の考えで、イエス様を見たのです。
イエス様を見た時の内的態度が間違っていたのです。
人間的批判をしたのです。
私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、洗礼ヨハネの見方があって、
それを行うと、結局霊的に乏しくなってしまうのです。
☆
大先生(文鮮明師)も、何をやっても、それをやるんだという、
その結果を目標に誠意を尽くすのです。
家を造る時も、私たちに相当説教されたのです。
「家を建てるというので、私はただこの仕事をやるんだ」と、
「二十八日間でやった」とこう思うけれど、
大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、
この期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、
誠意を尽くされるのです。
この建物はみすぼらしいけれども、
先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、
それは何のためにやるかというと、歴史的な因縁があって、
そしてまた、これによる民族的な目的があって誠意を尽くすのです。
これは一つの祭物です。
それのために愛するのではなく、この物に対しての愛ではなく、
この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。
先生のやり方はいつもそうなのです。
私たちは今、「こういうふうにしないで、ああしましょう、
こうしましょう」と、いろいろな意見があって、先生と合わないのです。
先生はそうする目的が今にあるのではなく、未来にあるのです。
だから今は私たちに合わないけれど、誠意を尽くす内容が違うのだから、
これはもう燃えてしまってもいいというのです。
これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、
目的をまだ見ているのです。そういうやり方を、いつもやっているのです。
☆
人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。
三十六家庭を見て、「君のために祝福したのではない」と言われるのです。
「君たちが今やめても、離れても、どうでも、
私は君たちに尽くす責任は済んだ」と言われるのです。
「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には
誠意を尽くしたのだから、君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。
君たちのために、祝福したのではない。
祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。
血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間を
神の前に祭物として使うのです。
先生自身の情の内容が、永遠にどういうものであったかという、
そこにあるのです。
☆
私たちはただ、「あの人間はああだ」と、現れたそのものだけを見て、
それに比較して誠意を尽くそうとするのです。
だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。
環境によって打撃を受けるのは、その環境だけに
自分が関心をもったからです。
そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うのです。
それで私たちが、マイナスになるのは、ただそのもの、
現在というそのものに、主管されやすい考え方でやっているからです。
そこに相当な損があるのです。
原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、その一人だけではないのです。
歴史的な内容を連続しているし、未来的な願いをもっている者だから、
神から見た時のこの存在物は、私たちの見たものと全然違うのです。
神の立場で私たちが、この「循環」というものを取り扱わないものだから、
結局、霊的には乏しくなってしまうのです。
それはピントが合わないからです。
☆
そういう面で、私たちは一生涯の生活を、過ぎ去ったのちには、
悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。
だから、神の立場からの思いでいつも誠意を尽くせば、
霊的に相当敏感になります。
そのもの自体に主管されないで、現在というものに主管されないで、
現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、
観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。
なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結ばれるから、
自分という立場が神の立場になってしまうので、自分も主管されるのです。
考え方によって、そうなるのです。
そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。
それを連続していけば、とても成長します。
1.牧会
「神の立場から誠意を尽くす」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「神の立場から誠意を尽くす」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
目に見える結果的現象世界だけを見つめるのではなく、
結果が現れる過程が重要であり、
そういう観点から、物事を見つめていく必要がある
ということなのではないか、と思います。
苦労のない人生はないでしょうし、
とりわけ信仰生活は、自分の思いでそれを見つめていたら
心が枯れてきてしまいます。
今見える現実はその通りなのですが、
その過程とか、歴史的なものとか、
立体的に物事をとらえることが大切だとは思っても、
なかなかその深い意味はわからないものです。
それでも、何ごとにつけても、神の観点に立ち、
父母なる神の立場で見るならば、
人に対しても愛をもって対せるし、
感謝で乗り越えられるのではないでしょうか。
蕩減復帰というのは、
天のみ意にかなったものならば
必ず元手を取れるとのこと。
神様に対しての精誠、
意識して、歩んでいきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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