2021年09月23日

苦労してもいじめられても、元手を取る生き方 神のポジション 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「神の立場から誠意を尽くす」です。

 
蕩減復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、
いつかは利益が戻ってくるんだという自信をもって、
苦労するとか、迫害を受けるとか、損するとか、いじめられるとかするのです。

何かもうけがあるという原則的な立場に立ってしなくては、
結局、結果的には人に笑われたり、人に対して恥ずかしくなってしまうのです。
そういう面を、信仰人物たちから学ばなくてはならないのです。

 
洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして
民族的な立場の人物になっていたのですが、
イエス様と付き合った時には、人間的に付き合ったのです。

どうして心情的に付き合わないで、人間的に比較したのでしょうか。
イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、
結果的に見て、付き合ったのです。

歴史的なこの人間の過去を知らないのです。
神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないのです。

表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、
洗礼ヨハネの立場からは、授受ができなかったのです。
自分の考えで、イエス様を見たのです。

イエス様を見た時の内的態度が間違っていたのです。
人間的批判をしたのです。

私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、洗礼ヨハネの見方があって、
それを行うと、結局霊的に乏しくなってしまうのです。

 
大先生(文鮮明師)も、何をやっても、それをやるんだという、
その結果を目標に誠意を尽くすのです。

家を造る時も、私たちに相当説教されたのです。

「家を建てるというので、私はただこの仕事をやるんだ」と、
「二十八日間でやった」とこう思うけれど、
大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、
この期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、
誠意を尽くされるのです。

この建物はみすぼらしいけれども、
先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、
それは何のためにやるかというと、歴史的な因縁があって、
そしてまた、これによる民族的な目的があって誠意を尽くすのです。

これは一つの祭物です。

それのために愛するのではなく、この物に対しての愛ではなく、
この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。
先生のやり方はいつもそうなのです。

私たちは今、「こういうふうにしないで、ああしましょう、
こうしましょう」と、いろいろな意見があって、先生と合わないのです。

先生はそうする目的が今にあるのではなく、未来にあるのです。
だから今は私たちに合わないけれど、誠意を尽くす内容が違うのだから、
これはもう燃えてしまってもいいというのです。

これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、
目的をまだ見ているのです。そういうやり方を、いつもやっているのです。

 
人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。

三十六家庭を見て、「君のために祝福したのではない」と言われるのです。
「君たちが今やめても、離れても、どうでも、
私は君たちに尽くす責任は済んだ」と言われるのです。

「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には
誠意を尽くしたのだから、君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。
君たちのために、祝福したのではない。
祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。

血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間を
神の前に祭物として使うのです。
先生自身の情の内容が、永遠にどういうものであったかという、
そこにあるのです。

 
私たちはただ、「あの人間はああだ」と、現れたそのものだけを見て、
それに比較して誠意を尽くそうとするのです。
だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。

環境によって打撃を受けるのは、その環境だけに
自分が関心をもったからです。
そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うのです。

それで私たちが、マイナスになるのは、ただそのもの、
現在というそのものに、主管されやすい考え方でやっているからです。
そこに相当な損があるのです。

原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、その一人だけではないのです。
歴史的な内容を連続しているし、未来的な願いをもっている者だから、
神から見た時のこの存在物は、私たちの見たものと全然違うのです。

神の立場で私たちが、この「循環」というものを取り扱わないものだから、
結局、霊的には乏しくなってしまうのです。
それはピントが合わないからです。

 
そういう面で、私たちは一生涯の生活を、過ぎ去ったのちには、
悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。

だから、神の立場からの思いでいつも誠意を尽くせば、
霊的に相当敏感になります。

そのもの自体に主管されないで、現在というものに主管されないで、
現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、
観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。

なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結ばれるから、
自分という立場が神の立場になってしまうので、自分も主管されるのです。
考え方によって、そうなるのです。

そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。
それを連続していけば、とても成長します。

1.牧会
「神の立場から誠意を尽くす」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


目に見える結果的現象世界だけを見つめるのではなく、
結果が現れる過程が重要であり、
そういう観点から、物事を見つめていく必要がある
ということなのではないか、と思います。

苦労のない人生はないでしょうし、
とりわけ信仰生活は、自分の思いでそれを見つめていたら
心が枯れてきてしまいます。

今見える現実はその通りなのですが、
その過程とか、歴史的なものとか、
立体的に物事をとらえることが大切だとは思っても、
なかなかその深い意味はわからないものです。

それでも、何ごとにつけても、神の観点に立ち、
父母なる神の立場で見るならば、
人に対しても愛をもって対せるし、
感謝で乗り越えられるのではないでしょうか。

蕩減復帰というのは、
天のみ意にかなったものならば
必ず元手を取れるとのこと。

神様に対しての精誠、
意識して、歩んでいきたいです。




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posted by ten1ko2 at 09:46 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする