2021年10月25日

ユンヨンホ世界本部長が、カンボジアで時の人に?! *天一国祝勝会み言と報告



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昨日行われた天宙聖和9周年記念行事の
「天一国祝勝会」
そこで語られたお母様のみ言を紹介します。



真のお母様祝勝会でのみ言

全世界でこの日を共にしている指導者と
祝福家庭の皆さん、幸せな日です。

地上において真の父母と共に天の父母様を
実体に侍り生活する、天の父母様の夢が実現した
地上天国への生活へと向かう、最初の一歩。

天はどれほど、どれほど待ちに待ってこられたのか
ということを私たちは知っています。

この一日、天の父母様の地上における生活を
出発するにおいて、ありがたいことに
天はこの韓半島を祝福してくださり、
真の父母を誕生させてくださいました。

ですが、今日の現実をおいてみる時に、
この民族は、いまだ目を覚ますことができない事実を
私たちは目の当たりにしています。

真の父母の願いも、天が祝福されたこの国が、天に
侍る統一された国として世界の前に、堂々と
天に侍る生活を「このように生きなければならない」と
出発できるこの国と民族と民となることを願いながら、
今日この日まで、誰も考えることができなかった
環境を、真の父母は天をつかんで、
特に、キリスト教の環境圏が
責任を果たすことができなかった立場において、
真の父母として成すことができる
すべての精誠と苦労を通して、米国と日本が
一つになるしかないそのような立場において、
明日を希望と共に見つめることのできる
環境圏をつくりあげるまで、天のご苦労は
言葉では表現することができないものでした。

天も地も感動するしかない真の父母の苦労の路程は
今や、アジア太平洋文明圏時代を
出発することを通して、世界様々な国々が
真の父母と共に、真なる平和世界へと
歩み出すことができる道を、
共に探し出そうとしているのです。

今回、本部長がカンボジアに訪問してきましたが、
これを通して私たちが報告を受け、感じる中で、
この一日を準備してくださった天がおられた
ということを私たちは実感することとなりました。

どのように宗教が異なる国家の指導者たちが
真の父母の思想を受け取り、共に平和世界へと
歩み出そうと、決心し、すべての能力と知恵を
動員して、天の父母様の夢を成して
差し上げることができる人類平和一家族の世界へと、
歩みださなければならないことを、誰よりも
先頭に立つ、真なる指導者、そして義人が現れるまで、
天のご苦労は言葉では表現できない
ものであったことを私たちは知っています。

そうなのです。
天はこれ以上、待つことができません。
私たち統一家の祝福家庭、特に韓国の
祝福家庭たちの責任が大きいのです。

この国が天に侍る国となることができるよう、
その端緒をつかむにおいて皆さんが残った6ヵ月間、
天を信じて、独生女真のお母様と一つになって
責任を果たす位置に歩みだすとき、
天は、私たちと共にあられ、
私たちの夢が、天の父母様の夢が成される
その日となることを心に刻んで、
最善を尽くしてくれることを願います。


文鮮明天地人真の父母天宙聖和9周年
記念行事 勝利報告特別集会
(天一国祝勝会)
2021年10月24日


昨日は、朝9時前から始まって、
終わったのは、12時過ぎになりました。
午後は、秋季大役事(2日目)があったので、
そこには被らなかったのが、何よりでしたが、
とても長丁場でした。

特に長かったのは、ユンヨンホ世界本部長の報告でした。
おそらく予定の時間をオーバーしたと思います。
2027年までの摂理の概略を語ってくださいましたが、
その報告のメインは、「カンボジア」でした。

第7回のシンクタンク2022希望前進大会は、
カンボジアに「アジア太平洋事務局」を設置するという
歴史的な大会になったのですが、
それ以降、ほとんど連絡が取れない状態でした。

このたび、世界本部長がカンボジアに
真のお母様の名代として行ってこられたとのことですが、
実際はどうだったのでしょうか。

世界本部長は、国賓待遇で迎えられ、
フンセン首相から、第2級の勲章を授与されたのでした。
(お母様は第1級の勲章を受けられている)

会談では、フンセン首相は、
世界本部長がスピーチを話した内容をすべて受け入れ、
その後政府首脳とMOUを締結することができました。

「アジア太平洋事務局」も、とても立派なものが
出来上がっていて、詳細は語られませんでしたが、
今後の展開にとても希望を感じられる状況だとのこと。

何よりも、フンセン首相は世界本部長に対し、
わざわざ出迎えと見送りをしてくださり、
最初に出会われた時、また、別れるとき、
「真のお母様に感謝します」
と丁重に述べらたそうです。

フンセン首相は、本物の本物、
摂理上、偉大な人物になるのではないでしょうか。。。

また、私がこの大会を通して感じたのは、
ユンヨンホ世界本部長のすばらしさでした。

単身カンボジアにわたり、
フンセン首相に対するため、
5分間という与えられた時間で大切な内容を
伝えなければならないため、前日は
眠ることができなかった、と言います。

準備した原稿を読むことを許していただき、
5分のところ30分近くになりました。
もともとは全部で35分の会談予定だったのですが、
感動されたフンセン首相も1時間以上話され、
その後、もっと話したいことはないですか、と
午前中いっぱい説明することになったとのこと。

カンボジアではその内容が
すぐにメディアで取り上げられたということで
ホテルでも顔を覚えられていたそうです。

本当にお母様の名代、代身として、
見事に役割を果たされた世界本部長。
お母様を証ししたい、という一心だったと思います。

また、何よりもお母様は、み言にもあるごとく、
神様のご苦労を思い、神様の夢を果たしていきたい、
その一念が、すべての出発になっていらっしゃいます。

私たちも相続していかなければ、と改めて思いました。



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posted by ten1ko2 at 10:08 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月24日

この道を最後まで行かなければ何もならない! 《♪聖歌 わが身の十字架》



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わが身の十字架を
(たれ)に担わさん
主はこの道を先駆けしを …

十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う




世界平和統一家庭連合の「聖歌」を紹介するシリーズより
今回は、第一部28番「わが身の十字架」をお届けします。


作詞者の柳光烈(ユ・グァンヨル)先生は詩人で、
長年韓国統一教会(家庭連合)の文化部長を務めた人です。

作曲者の金斗琓(キム・ドゥワン)氏は既成教会の有名な作曲家で、
その弟子を通じて作曲を依頼することができたのです。

1959年8月28日の朝、柳先生は例えようもなく神が慕わしく
心情的に近く感じられ、熱い感慨が胸に溢れて
「お父様に何か申し上げたい。何か書きたい」
という思いがしたそうです。

その思いを書き留めようとして紙に向かうと
言葉が後から後から湧き出してくるので、
感動しつつ泣きながら書いたのがこの詩です。

その時胸に込み上げるものは
「最後まで行かなければならない。
いくら教会にいたとしても、最後まで
行かなければ何にもならない」という思いでした。

そのころを思い出しながら、
柳先生は次のように語っています。

「これは長年み旨の経験を積んだ人ならだれでも、
 わが気持ちとして実感できるでしょう。

 いくら手柄を立てても、いくら苦労をした実績があっても、
 最後まで行かなければ何の意味もないということになる、
 そんな気持ちを強く表した詩です。

 だから長年歩んできた人を、
 さらにさらに前へと激励する内容の歌です。

 迫害や風当たりの強い時代であり、
 お父様も非常に気を付けながら
 兄弟を育てていかれた苦しい時でした。

 私たちは果てのない道を
 いつまでも歩くような気持ちがいくらかあるのです。

 でも結局は必ず終わりが来るのです。
 力を尽くして歩めば、必ず成就する日が来ます。
 歩き尽くした時、行き着くのです」

(参照:『聖歌のめぐみ』)




この道を最後まで歩むことが
どれほど大切なことか、改めて感じました。

特にこの唄が作られた頃は
み旨を歩むことが大変厳しい時でした。

昔の多くの先輩たちは、馬の尻尾をつかむように
けして離さないように、とよく言われていたといいます。

学生時代にある先輩から聞いた証しです。

あまりにも歩むことが厳しくて、
教会から去っていこうと、こっそり抜け出したことがあった。
その時のマザー(青年部でお母さん的な立場の人)が
たまたま私の姿を見つけて、走ってきて教会に連れ戻した。

そのマザーは足が不自由な人だったのに、
走ってくるなんて。。。
それ以降、この道を離れようと思ったことはない。

そんな証を思い出しました。

昔の先輩たちの苦労があって、
今の私たちがあることを思って、
今もみ旨に苦労はあるかと思いますが、
最後まで行かなければ何もならない、
そういう思いを、かみしめながら
讃美していきたいと思います。

(下に歌詞を掲載)



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聖歌第一部28番
「わが身の十字架」

1.
わが身の十字架を誰(たれ)に担(にな)わさん
主はこの道を先駆(さきが)けしを
(たまわ)りし御旨(みむね)果たせずして
千歳(ちとせ)の歴史は血と涙
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

2.
身ニ過ぎし重荷、負わすべきや
強く歩まばわれは着かん
御旨に捧(ささ)げしこの身なれば
などてためろうや生命(いのち)の道
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

3.
御旨成すが為(ため)、耐え来し(たえきし)
子もまた共に戦わんや
成さずば苦労も無に等しく
戦い勝てば永久(とわ)の幸を
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

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2021年10月23日

「笑っていなさい」 最大の祭物=十字架、ダンベリーで私たちは救われた 《奈田先生》



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奈田壽美子先生の「父母と共なる生活」
旧約、新約時代に続く「祭物精神」の3コマ目、
『心情(父母)の蕩減時代』です。


ところでまた同時に、並行して考えなければならないことは、
ダンベリーに行かれたときの文先生のお姿です。

文先生は、長女の誉進様のお話の中にもありますように、
「いつも神様の心情を考えなさい」
と教えておられます。

文先生は弁護士まで慰められ、私たち、失敗した者が泣きわめく姿を見て、
「なぜ泣くのか」とむしろ、叱咤激励されながら、
どちらが刑に処せられる身なのか分からないような立場で
ダンベリーに入っていかれました。

このような文先生の計らいによって、私たちはまた救われたのです。

もし文先生が、「お前たちの罪によって刑務所に入るのだよ」
とでも言われたとすれば、私たちには行く場がありません。
だからといって、消えてしまうわけにもいきません。

それを、「さあ、これから始まるんじゃないか」
と文先生は言ってくださったのです。

 
イエス様もまた、
「これから十字架によって新しい道が開かれるのだ」
と言われたのです。

キリスト教というのは、なくてもよかった道なのです。
神にはそういうものを新しく興すつもりは全くなかったのです。

それなのに、新たに宗教を興して、
犠牲の道を越えていかなければならなくなりました。
そのときイエス様は、新しい出発であると思われて
十字架にかかっていかれたはずです。

  
先生もまさしくそのとおりです。

十字架をそのまま、生きながらにして
私たちに示してくださったのです。

文先生と一緒に刑務所に入った神山氏に尋ねてみると、
ダンベリーに入られた当時は、本当にひどかったといいます。

入る時にもいろいろな検査がありますが、
服を脱がされて検査をされているお姿を見ると、
「重要な神の使命を帯びた方がこんなことまでされて」と、
全く耐え難かったという証があります。

文先生ご自身はそのような屈辱のすべてを
甘んじて受けられながらも、
長女の誉進様などが心配されるお顔を見られて、

「そんな顔をしてはいけない。
 いつも、何事もなかったように、
 笑っていなさい。
 ビッグ・スマイルで……」
と言われました。

そのような文先生のお姿は、
正にメシヤの使命をもった方だと思います。

  
文先生がダンベリーに入られたことにより、
私たちも一度死んで再び生き返って救われた立場に立ったのです。

「君たちもこれからダンベリーに入るように」
と文先生は言われました。

私たちは先生によって
そこから再び生まれ変わるチャンスを与えられたのです。
そうでなければ、そのときに私たちは霊的に死んで、
散り散りばらばらになっていたというのです。

  
あのときの裁判の経過などを知ると、
文先生であるがゆえに受けられた裁判だと思わざるをえません。

弟子たちの不信仰がこういう結果を招いたのです。
それは正に内部告発だったのです。

イエス様の時もそうでした。
裁判の進行から、何から何までそっくりなのです。
「文先生を十字架に送ってはいけない」と言いながらも、
結局押し流されてしまう私たち弟子の弱さ。

  
「一体私たちは、先生にとって何なのだろう。
自分が救われたくて来ただけだったのか」
と思わされました。

私はあの時、本当にさまざまに考えました。
だれが悪い、何が悪いではなく、
「私自身が何だったのか。
本当にくずのような自分でしかない」という反省のみでした。

しかし先生は、即座に解決の道を開いてくださり、
悪いことはすべてご自分で引き受けられ、
「君たちは蕩減しながらみ旨をやっていきなさい」
と言われました。

また刑務所から出てこられると、
「天国創建」だ、「祖国創建」だと言われ、
どこまでも壮健で力強い文先生であられたのです。

  
そのように、文先生は
イエス様の実体的な蕩減をそのまま踏襲していかれたのです。
それが心情の蕩減であり、文先生の歩まれた道なのです。

ですから、文先生の道は簡単なものではありません。
サタンも簡単には許さないからです。

「生きた祭物」として、生きたまま血を流し、
生きたまま祭壇に上げられ、
生きたまま焼かれるという道だったのです。

しかも、死ぬことができないのです。
ですから先生は、実体で生き残るために、
ありとあらゆる健康法を見いだされたといわれます。

そのようにして、霊的にだけでなく、
肉体的にもいかに生き残るかを考えてこられたのです。
原理に従って、肉体を生き残らせてこられたのです。

 

「今まで祭物は二つに裂いてささげてきたけれども、
 裂いた祭物は死んだ祭物である。

 祭物は本来死んだ祭物でなく
 心身共に一つなる生きた者であるのだけれども、
 今まで心と体、天と地は戦ってきて、
 心は天、体は地のような関係にあり、
 裂くということはその分別点を表して、
 そこに蕩減条件の血を流し、
 神にささげられてきた。

 しかし、我々を神とサタンが認める立場に
 おいては、心と体が一体となった。

 死なずに生きた祭物として神にささげて、
 新しく神から生きたものとして立たせる
 その実体物とならなければ、
 天国に立つことのできる真の天の親子、
 天の子女になりえないというのだね。

 いわゆる祭物を超えて
 復活体となったものでなければ、
 天国に入れないというのだね。

 復活したイエス様は、殺された
 汚れた肉体の立場からも復活したのだから、
 我々においてそれ自体、心身共
 そのまま復活しえたという基準を立てなければ、
 天地とも完成しうる
 地上天国に入れないというのだね。

 だから死んではいけない」

「この天宙で一番かわいそうなお方は誰か。
 神である。
 それを慰める人は
 この中に我一人しか残っていない。

 そういう立場に立っている悲しみ、
 先生の悩むその心の根底を探すなら、
 一時に泣き出すような心情である。

 そういう心情を中心としての生活を
 連続していかなければならないのが、
 復帰路程の蕩減条件下にある先生の立場である」


第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(3)心情(父母)の蕩減時代

父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)


真の父母様の歩まれた道は、
神様を慰め、人類を解放する道であり、
私心が一つもない道でありました。
その結論が「生きた祭物」の道なのだと思います。

そして、「人類」というのは、ほかならぬ、
「私自身」である、ということです。

ダンベリーは、1980年代のことであり、
私も判決がくだされてから、教会に導かれたので、
「過去のこと」と捉えることもできます。

しかし、客観的に見つめるのではなく、
「私の罪」ゆえにそのような道を行かれたのだ・・・
そのことをどれだけ感じ取ることができるかが、
一つの信仰のバロメーターなのだと思います。




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