2021年10月19日

初めての訪韓、守護霊が見た文先生ご夫妻は・・・ 《北谷先生 死んだらわかるけど、それでは遅い》



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北谷先生の「死んだらわかるけど、それでは遅い」
今回は、「あのお方でなければ人類を救えない」です。


家庭連合の信仰を持ってしばらく経った頃、
韓国で文鮮明先生にお目にかかる恵みにあずかりました。
今から三十年以上前の話です。

私は小さい頃から肉が苦手で食べませんでした。
親や兄弟は好きなのですが、どういうわけか、私は嫌いだったのです。
匂いの強いものは嫌いでした。

ところが、韓国に行ってみると、もう空港に着いた瞬間から
キムチの匂いがするのです。
今はそんなことはありませんが、
当時の金浦空港は強い匂いがしました。

そして、食事に連れて行ってもらったのが参鶏湯(サンゲタン
鶏肉に高麗人参、もち米などを入れて煮込んだスープ料理)
専門店だったのです。

私は肉が苦手だったのですが、中でも鶏肉が一番の苦手だったのです。
それなのに、鶏が丸ごと出てくるのです。
見た瞬間、「わっ、もういい」となってしまいました。

それで 「肉はいいから、ご飯はありませんか」と聞いたら、
その鶏の中に入っているというのです。
これには全く閉口しました。
そんな感じで、食べ物が全く合わなかったのです。


当時の私にとって文鮮明先生は神様のような、雲の上の存在でした。
神道では、“神様”と言えば、
「すだれの向こうに在す」という神秘的なイメージがあります。
心がすーっと清くなる、何とも言えない神秘さを感じるのです。

ところが、目の前にいらっしゃる文鮮明先生は、
言葉はとても早口で、顔の表情も変幻自在にされます。
神秘的なイメージからはほど遠かったのです。

それまでビデオでは拝見していたのですが、実際にお会いすると、
自分のイメージしていたものとは全く違っていて、
少なからずショックを受けました。

そのうえ、その時の私は、韓国の食事が合わず、
何日間も飲まず食わずの状態で、体調も最悪だったのでした。
頭もガンガンして「一刻も早く日本に帰りたい」
と思いながら三日間を過ごしたのです。


帰国してから、実家(神道の教会)の母に
韓国でのことを報告しに行きました。

自分では大変だったとしか思えなかったのですが、
子供の頃からお世話になっている
“神様”に 報告しておかなければいけないと思って行ったのです。

その時、金剛龍王大神(こんごうりゅうおうおおがみ )が母に入ったのです。
金剛龍王大神は、私を幼い頃から
守護してくれていた“神様”です。

母を通して金剛龍王大神が語るには、私と一緒に韓国に行き、
私を通して文鮮明先生にお目にかかったというのです。

金剛龍王大神は文鮮明先生の印象を、母の口を通して、
「何千年の間で初めて見た。
あのお方でなければ人類を救えないと思う」と語りました。
私の受けた印象とは天地の差がありました。

そして、「もっと食べ物に気をつけていただきたい。
もっと寝る時間を取っていただきたい。
そして一年でも一カ月でも、一日でも一分でも、
長く生きていただかないと困る」と、切々と訴えるのです。

そして、「真の父母(文鮮明・韓鶴子ご夫妻)の時代だけで
成さなければならない」と言うのです。

人間始祖アダムとエバが堕落することによって、
彼らが偽りの父母となって人類がサタンの血統圏になってしまったので、
真の父母がそのすべての過ちを清算して、全人類を生み変えて、
神様の血統圏に復帰しなければならないということでしょう。


また、私はこの訪韓の時、
文鮮明先生にしか関心が行かなかったのですが、
金剛龍王大神は違いました。

韓鶴子夫人について、
「この方も、同じように勝利された方だ」
とはっきりと証ししたのです。

そして、「真の父母(文鮮明・韓鶴子ご夫妻)の時代だけで
成さなければならない」と言うのです。

光言社刊 北谷真雄 / 著
「死んだらわかるけど、それでは遅い」より



霊界にいる人たちというのは、
すべてがわかっているわけではありません。

私たちの背後の先祖たちは、
私たちが聞いたみ言を共に聞いて学び、
見るもの聞くもの、すべて私たちを通して体験するといいます。

北谷先生を守っている守護霊も
北谷先生が、韓国で初めてお父様に会われた時、
一緒に会うことができました。

また、北谷先生が当時、あまり意識をもって
見られたわけではない、お母様のことも、
北谷先生とともにお会いしたのです。

ちなみに、北谷先生がお父様に対して、
「少なからずショックを受け」たとありますが、
お父様はいと高きところにおられる方ではなく、
私たちの「親」として親しみをもって
接してくださっていたのでしょう。

「何千年の間で初めて見た」
と守護霊が言われた真の父母様。

私たちは、そのお方に侍っているということが
どれだけ感謝でならないか、
つくづく感じさせられるのです。




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2021年10月18日

私が「神様につながる係」になろう、それぞれの得意分野で 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。
今回は、「神様につながる係」です。

(海外在住 日本人女性 50代)

私は現実世界を生きるのが嫌で、
霊界があることに希望を感じて歩んできました。

ところが、なぜか家族は皆、現実的で社交的、性格も前向きです。
子供は近所の友達や同級生と交流するのが好きで、
アルバイトでも店長や後輩のために頑張っています。

そんな子供から私はよく、「お母さんは、
なんでそんなに自信がないんだ!」と怒られています。

また、夫はやたら仕事や農業に自信を持っています。
私は「信仰でなく、そんなことばかりに
自信を持っていていいのだろうか」と疑問に思っていました。

ところがつい最近、なんと真のお母様が
耕運機やトラックに乗っていらっしゃる夢を見たのです。

「ああ、それでもいいと、
お母様が教えてくださったのだ」と思いました。


私はこれまで氏族伝道に対して、「教会に連れてきて、
み言を伝えて……」という流れを考えただけで、
自分にはとてもできないと思い込んでいました。

でも自己牧会プログラムで、「それぞれが
得意なことを生かしてみ旨に貢献しましょう」
と教えられて、少し希望が出てきました。

その人の得意なことを知って、
それを生かしてあげるのも氏族伝道なんだと思ったら、
少し楽しくなってきたのです。


実は、うちの子供は現在、教会に通っておらず、
教会の友達とも交流がありません。
 
そんなわが子を見ながら、「この先どうしよう」と
悩んでいましたが、私が神様につながり、
先祖解怨を進めていけば何とかなる、
また地域や友達も復帰できると思えるようになりました。

そんなことを考えていたら、さっそく庭に近所の人が来て、
しばらく立ち話をしました。
これも神様が準備してくださった時間だと感謝しました。

それぞれが得意なことを中心に進んでいく、ここに希望を感じます。
私が「神様につながる係」になっていけば、
氏族伝道も夢じゃないという気がしてきました。

自己牧会プログラムによって、
そのような境地に至らせていただき、感謝しています。

私の心の中にいる神様 90
神様につながる係


自己牧会プログラムというのは、
与えられた環境を変化させるのではなく、
「私」の心、捉え方を変える、魔法のようだと思いました。

話は変わりますが、昨日、祝福勉強会があり、
本部の渡邊部長(祝福教育部)に来ていただきました。
そこで、「難しくてもすべてがプロセス」というお話がありました。

お父様がダンベリーに入られた時にも、その現象だけを見て、
「メシヤは牢獄に入ってしまうんだ、もう終わりだ・・・」
とつまずいて離れていってしまった人がいる、と言います。

しかし、お父様は「本部をダンベリーに移す」と語られて、
そこを踏み台にして、新たな摂理を展開していかれたのでした。
お父様も「自己牧会プログラム」をされていたともいえますね。

目の前に起こる事象がマイナス的に見えても、
私がどのように捉えるか、が重要であると思うのです。
「神様につながる係」を全うしていきたいですね。





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2021年10月17日

(証し)「信仰は火と燃え」る前の、松本ママ 少女時代に来日・結婚・神に出会うまで



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▲世間知らずだった20代(左が筆者)


「信仰は火と燃えて」
松本ママの韓国での幼少時代から、
訪日し、結婚され、
教会に出会うまでの証しです。


  教会員に「松本ママ」と慕われ、
  烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916〜2003)。
  同シリーズ(「信仰は火と燃えて」)は、
  草創期の名古屋や大阪での開拓伝道の証しをはじめ、
  命を懸けてみ旨の道を歩まれた松本ママの
  熱き生きざまがつづられた奮戦記です。


来日・結婚・悩み

私は、韓国の慶尚南道(キョンサンナムド)のはずれの片田舎で生まれました。上の兄が亡くなり、すぐ上の兄と私とは10歳年が違ういわゆる年寄り子で、両親の愛を一身に受けて育ちました。母は熱心なクリスチャンで、私は小さい時から母に背負われて教会に行っていました。

母はとても気の弱い人でした。
昔、母の友達で、のどに魚の骨がささって、苦しみながら死んでいった人がありました。母はその姿を見て、「あの人を誰も救えなかった。自分もあんなに苦しみながら死ぬのではないだろうか。生きるとは何だろう。死んだらどこへ行くのだろう」と絶望と悲しみのあまりノイローゼになってしまい、一日中泣き続けるという状態でした。

父は何とかして治そうと思い、医者にみせ、いろいろなところに連れて行って八方手を尽くしましたが、原因不明でどうしようもありませんでした。そこで仕方なく、愛島(エト)という静かな島に静養に行かせました。その島にキリスト教が入ってきたのです。

神とキリストと聖霊の名によって悪霊を追い出して、救いを祈ってくださる牧師の言葉に感動し、神を知り、キリストを知って、自分が救われていることを知るようになると、母の病気はすっかり治ってしまいました。


そうして熱心なクリスチャンとなって、10年後に私が生まれたのです。1916年旧暦1月7日のことでした。父は男の子を望んでいたので、正道という男のような名がつけられました。

母は、毎朝4時ごろになると、家の庭の300年もたった木の下でお祈りをしました。甘えん坊の私は、その祈りが終わるまで母のそばで待っているのです。寒い日は母の長いスカートの中に入って、ひざを枕にして寝てしまうのでした。「主よ来たりませ。私の民族を救ってください。遠い日本で苦学している息子を守ってください」と祈る母の声を、毎日子守歌のように聞いていました。

日曜日になると、母におんぶされて教会に行きました。当時、韓国は日本の統治下にあり、私の家から教会に行くのに、日本人町を通って行きましたが、子供の私の目的は教会ではなく、この日本人町にあるお菓子屋でした。家が貧しい百姓なのでお菓子など食べたことがなかったのです。

お菓子が食べたい。あめ玉がなめたい。それが子供の私の最大の願いだったのです。


10歳の夏のある日のことでした。同じ村の、日本に留学していたお金持ちのお嬢さんが、夏休みに帰省しました。私の兄が日本に留学していたので、母は息子の消息を聞くために、そのお嬢さんを訪ねました。その時、私も母について行ったのですが、そのお嬢さんが、私の心を非常に引きつける話をしました。

「あなたの息子さんは、セロハンの袋にお菓子を詰めて、いろいろな劇場に卸す仕事をやっています。だから夏休みになっても帰ってこられないんです」と言うのです。

私はお菓子と聞いてびっくりして、胸がドキドキしてきました。自分はお菓子を食べたくて病気になりそうなのに、兄はそのお菓子を取り扱っているというのです。私はうれしくて、よし、お兄さんのところへ行こう、と子供心に決心してしまいました。母は、息子が苦学をしていることを聞いて泣きながら歩いて帰りましたが、私は、お菓子が食べられると思うとうれしくて、希望に胸をはずませて帰ったのでした。

ところが、日本に行きたいという私の願いを、父は絶対に許さないと言います。兄さんがいるから大丈夫だと言ってもだめでした。けれども私は行きたくて行きたくてたまらないものですから、御飯も食べず、熱を出して3日間泣き続けました。お菓子が食べたくて、「兄さんに会いたい」とだだをこねるのです。とうとう父母はあきらめて、このままではこの子は死んでしまう。仕方がないから行かせようということになりました。


生まれて初めて乗る長い列車に3時間ほど揺られ、一日かかってやっと釜山(プサン)に着きました。10歳の子供が親元を離れ、海を越えて遠い日本に渡るということは、いくら肉親がいるとはいえ、普通では考えられないことです。けれども子供の私にとって、お菓子の魅力はその不安を越えるものであり、神はきっとお菓子をもって私を日本へと導かれたのでしょう。

翌日下関に着き、何時間も列車に乗ってやっと東京に着きました。結局、それからずっと日本に住むようになったのです。

 
やがて兄は、アルバイトで始めた仕事が本職になり、たくさんの人を使い、一流劇場に卸すようになって、26歳で既に社長でした。またグリコ会社の宣伝部長として、どんどん責任ある立場に立ってやるようになり、そこの一番優秀な社員に私をお嫁に行かせました。ちょうど不景気な時ですから兄は、妹を生活能力のある男のところへ嫁がせるのが、自分の責任だと思っていたのでしょう。
満17歳、夢や理想がたくさんある私を、女学校2年で中退させてお嫁に行かせたのでした。

12月25日クリスマスの日に結婚し、新婚旅行もないままに、翌日から新しい生活が始まりました。夫の家は、父母兄弟、雇い人を含めて15人くらいの家族でした。ところが私は家では甘やかされて育ち、10歳から兄の手で育てられたので、御飯の炊き方も針の持ち方も知らず、まだ少女クラブを読んでいた子供だったのですから大変です。夫は、半年くらいは自分で炊事をし、私を訓練しなければなりませんでした。

夫は韓国人ですが、私よりも幼い時に日本に来ているので、趣味も日本的で武士のような人でした。24、5歳で人を使う立場に立ち、長男でもあったのでいろいろと苦労も多く、年のわりに精神年齢の高い人でした。それに比べ私は、両親に愛され、兄に愛されてきた甘えん坊で、まだ夫の弟や妹とかくれんぼをして遊ぶほうがいいような子供だったのです。

夫とけんかをすると私はすぐ兄のところへ帰ってしまいました。すると夫が迎えに来て、兄に「道子はこうなんだ。とても一緒に生活することができない」と訴えるわけです。それに対し、兄が「まだ子供なのだからお前が育てながら暮らすんだよ」と言っているのが聞こえました。それで夫は、兄が妹をなだめるように私の好きなものを買って、自転車に乗せて帰るのでした。

 
結婚して10年、一男二女が生まれ、そして27歳の時に戦争になりました。
韓国に帰りたいという夫の両親の願いにより、夫は、両親と長女を連れて先に韓国に帰りました。それが夫との永遠の別れでした。戦争が終わってから、夫がパラチフスで死んだという知らせが届いたのです。

私は夫の死を確かめるために韓国に行き、そこで夫の日記を見つけました。日記の中には、私のことばかりが書かれていて、その時初めて、私の帰りを一日千秋の思いで待っていた夫の気持ちを知ったのでした。


世間知らずの私は、結婚してから様々な苦労がありましたが、そのほかにも、人に知られざる悩みがありました。

私は、母がクリスチャンでしたから、日本に来てからも自然に教会に通い始めていました。けれどもそのうちに、聖書に疑問をもつようになったのです。人間はどこから来たのか。神は泥で人間を造ってどのように息を吹き込んだのか。天国はどこにあるのかと、数々の疑問を牧師にぶつけました。

「聖書に書いてある」と牧師が答えると、「聖書は人間が書いたものじゃないですか」と言い、「聖霊が書いた」と言えば、「聖霊をあなたは見たことがありますか」と追求していきました。

けれども結局「あなたは理屈屋だ。ただ信じさえすれば天国へ行くんです。そういうことを言うもんじゃない」と言うだけで、誰も答えてくれません。誰と話してもけんかになってしまい、ついに私は考え込んで、3日も口をきかないこともありました。


また、私が苦しんだことは、信じるものが何もないことでした。おそろしい空襲の中で、防空壕(ごう)に隠れ、私は神を否定しながらも必死に神に祈っていました。

共産主義者の友達が、「神なんかいるもんですか。あなたは見たことないでしょう。神は人間がつくりあげたものなんですよ」と言えば、なるほどと思います。けれども神がいないのに、どうして人間は生きているのだろうと思うと、また分からなくなって悲観してしまうのです。母の生き方も間違いだったのでしょうか。人間も信じられず、聖書も心の支えとはなりませんでした。

とはいうものの聖書をよく読んでいました。私の行っていた教会の牧師は、そういう私を信仰のあつい婦人だと褒めて、とても信頼してくれました。そして、教会の開け閉めをする任務を私に与え、鍵(かぎ)を預けてくれました。

聖書の詩篇に「常にあなたは、私を求めよ。そうすれば、私に会うであろう」とありますが、私は、「こんなにあなたを求めています。あなたはどこにいるんですか」と毎夜泣いて祈りましたが、神を捨てることもできず、完全に信じることもできない苦しい毎日でした。

松本 道子・著
(光言社・刊『信仰は火と燃えて
―松本ママ奮戦記―』より)

信仰は火と燃えて 1
来日・結婚・悩み

(blessed life)
一部割愛しました
文責:ten1ko2


「信仰は火と燃えて」は以前読んだことがありましたが、
改めて読み直すといろんな発見と感動があったので、
皆様とも共有しようと思い、紹介させていただきました。
何よりも、BlessedLifeの編集者の皆様、ありがとうございます。。。

それにしても、松本ママのエピソード、
日本に来るまでのいきさつが波乱万丈ですよね。

お菓子が食べたくて、日本に行くと決め
3日3晩泣いて熱をだして、
親からの許しをもらった・・・

この肝が据わった性根というんでしょうか、
どんなことがあっても曲げない気質が、
のちの松本ママの、伝道師としての基盤を
築いているような気がします。

今後の歩みも楽しみです。。。




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