李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「死んでも神のもの」です。
☆
そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、
自然に貴重な人物として組み立てられ、組織されるのです。
私たちは、現在というもの歴史性と永遠性を知らず、
打撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。
私たちは、この時間圏内にいる者ではないのです。
実際、考えてみてください。
私たちは、現在にいる者ではないのです。
未来にいる者です。
未来の者であって、現在の者ではないのです。
だから復帰というものは、歴史的に済んだものを
解決しながら、永遠に生きていくのです。
そこさえよく解決すれば、蕩減条件が立つのです。
☆
アダムの家庭において、
カインがアベルのことで減少感を受けたのです。
未来を見ずにおぼれてしまったのです。
現在に、もぐってしまったのです。
沈められてしまったのです。
自分はそういう問題に触れる立場ではないのです。
未来において、偉大になるからです。
今アベルが祝福を受けたところで、それに関係する必要はなく、
現在に主管される必要はありません。
減少感を受けたそのものも、もはやその時間圏内に主管されています。
時間圏内におぼれてしまっているのです。
そこが一番問題です。
☆
私たちもどんな事件にぶつかっても、
それが起きた理由を早く知って、
これが来る以前の自分の方向を移動してはいけないのです。
こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、
未来性、希望をもった安全な態度だとしたら、
それがぶつかってきても、自分はその姿勢に責任をもたなくてはいけません。
こういう事件が、環境が変更になっても、
自分がその態度を守らなくてはならない責任があるのです。
そこが自分のもつべき責任であって、その関係をどういうふうにするか、
これをどういうふうにすればいいかという責任は、
自分はもっていないのです。
だけれども、すぐ私たちはもう、
「この環境を、これを通して」というようになってしまうのです。
だから、それに主管されてしまうのです。
☆
「これをどうしようか」と言わずに、
その時、自分を捨てなくてはなりません。
危険な時には、自分というものは捨てるのです。
なぜかというと、神の立場だからです。
神が、自分たちをそういう場面に指導してきたからです。
☆
イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、
これは困ったと思う必要はなかったのです。
自分が歩いてきたのではないのだから。
モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてきたのだから、
自分が心配する必要はなく、
導いてきた神が心配すべきだったのです。
☆
「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。
いつもそれで失敗します。
その時には黙っていればいいのです。
「行くんだ」と、行くというその目的観だけもっていればいいのです。
それだけで、黙っていればいいのです。
そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、
どこへ逃げようか、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。
そこに、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」
ということがあるのです。
そういう時には、死のうとしていればいいのですが、
生きようとするから間違えるのです。
☆
神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、
危険な立場に立たせてきたのです。
殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。
殺そうとしても、じーっとしていれば主管するつもりなのです。
神はイサクを殺そうとしました。
でもイサクが黙っているから、神は主管しなくてはなりませんでした。
それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、
神は主管できないのです。
☆
そういう場面場面が、私たちの生活に、
波のごとくぶつかってくるのです。
だからそういう時に、私たちは心情的に、
自分というものにとらわれないで、
全体を心配することができるかが問題なのです。
私たちにぶつかってきたものは、
自分だけのことではないのです。
全体のことなのです。
全体のことと思って、貴重に取り扱うのです。
だれの立場かというと、神の摂理の立場で、
いつも考えなくてはならないのです。
神を忘れて考えてはいけません。
自分というものもそうです。
信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、
神のものだとした、それを継続することです。
終わりまで神のものだと、死んでも私は神のものだとするのです。
☆
イエス様は、自分は神の息子だという信仰で一生涯を貫いたのです。
どんな迫害があっても、自分は神の息子だという
その信仰一点ばりで、立派な生涯になったのです。
私たちはそうではないのです。
そういうところで失敗が反復してきたので、
そこからどういうふうに私たちは発展するかということです。
1.牧会
「死んでも神のもの」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「死んでも神のもの」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
み言を訓読させていただいて、
「環境に主管される葉となるな」
という、み旨の道のお父様のみ言を思い出しました。
荒れ地を開拓し、未来に向かっていく、
それは、外的な天一国もそうですが、
私の心においても、希望をもって
天寶修行をして、天の願われる者になっていけるのです。
「死んでも神のものだ」
日々自覚して歩んでいきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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