2021年10月02日

私たちは未来にいる! 現実に埋もれず死んでも神のものに 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「死んでも神のもの」です。


そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、
自然に貴重な人物として組み立てられ、組織されるのです。

私たちは、現在というもの歴史性と永遠性を知らず、
打撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。
私たちは、この時間圏内にいる者ではないのです。

実際、考えてみてください。
私たちは、現在にいる者ではないのです。
未来にいる者です。
未来の者であって、現在の者ではないのです。

だから復帰というものは、歴史的に済んだものを
解決しながら、永遠に生きていくのです。
そこさえよく解決すれば、蕩減条件が立つのです。


アダムの家庭において、
カインがアベルのことで減少感を受けたのです。
未来を見ずにおぼれてしまったのです。
現在に、もぐってしまったのです。
沈められてしまったのです。

自分はそういう問題に触れる立場ではないのです。
未来において、偉大になるからです。
今アベルが祝福を受けたところで、それに関係する必要はなく、
現在に主管される必要はありません。

減少感を受けたそのものも、もはやその時間圏内に主管されています。
時間圏内におぼれてしまっているのです。
そこが一番問題です。


私たちもどんな事件にぶつかっても、
それが起きた理由を早く知って、
これが来る以前の自分の方向を移動してはいけないのです。

こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、
未来性、希望をもった安全な態度だとしたら、
それがぶつかってきても、自分はその姿勢に責任をもたなくてはいけません。

こういう事件が、環境が変更になっても、
自分がその態度を守らなくてはならない責任があるのです。
そこが自分のもつべき責任であって、その関係をどういうふうにするか、
これをどういうふうにすればいいかという責任は、
自分はもっていないのです。

だけれども、すぐ私たちはもう、
「この環境を、これを通して」というようになってしまうのです。
だから、それに主管されてしまうのです。


「これをどうしようか」と言わずに、
その時、自分を捨てなくてはなりません。
危険な時には、自分というものは捨てるのです。

なぜかというと、神の立場だからです。
神が、自分たちをそういう場面に指導してきたからです。


イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、
これは困ったと思う必要はなかったのです。
自分が歩いてきたのではないのだから。

モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてきたのだから、
自分が心配する必要はなく、
導いてきた神が心配すべきだったのです。


「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。
いつもそれで失敗します。
その時には黙っていればいいのです。

「行くんだ」と、行くというその目的観だけもっていればいいのです。
それだけで、黙っていればいいのです。
そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、
どこへ逃げようか、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。

そこに、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」
ということがあるのです。
そういう時には、死のうとしていればいいのですが、
生きようとするから間違えるのです。

 
神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、
危険な立場に立たせてきたのです。
殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。
殺そうとしても、じーっとしていれば主管するつもりなのです。

神はイサクを殺そうとしました。
でもイサクが黙っているから、神は主管しなくてはなりませんでした。
それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、
神は主管できないのです。


そういう場面場面が、私たちの生活に、
波のごとくぶつかってくるのです。

だからそういう時に、私たちは心情的に、
自分というものにとらわれないで、
全体を心配することができるかが問題なのです。

私たちにぶつかってきたものは、
自分だけのことではないのです。
全体のことなのです。
全体のことと思って、貴重に取り扱うのです。

だれの立場かというと、神の摂理の立場で、
いつも考えなくてはならないのです。
神を忘れて考えてはいけません。

自分というものもそうです。
信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、
神のものだとした、それを継続することです。
終わりまで神のものだと、死んでも私は神のものだとするのです。


イエス様は、自分は神の息子だという信仰で一生涯を貫いたのです。
どんな迫害があっても、自分は神の息子だという
その信仰一点ばりで、立派な生涯になったのです。

私たちはそうではないのです。
そういうところで失敗が反復してきたので、
そこからどういうふうに私たちは発展するかということです。

1.牧会
「死んでも神のもの」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


み言を訓読させていただいて、
「環境に主管される葉となるな」
という、み旨の道のお父様のみ言を思い出しました。

荒れ地を開拓し、未来に向かっていく、
それは、外的な天一国もそうですが、
私の心においても、希望をもって
天寶修行をして、天の願われる者になっていけるのです。

「死んでも神のものだ」
日々自覚して歩んでいきたいです。


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posted by ten1ko2 at 07:18 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする