2021年10月07日

イエス・キリストの十字架の意味、どうして「西暦」がスタートしたか 《奈田先生》



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奈田先生の「父母と共なる生活」より、
『祭物(さいぶつ)精神』の2回目、
先回は、旧約時代のお話でしたが、
今回は新約、イエス様以降の時代のお話です。

イエスといえば、その誕生を基に
これまでの歴史を塗り替える
新しい西暦という歴史が始まりましたが──


(2)実体の蕩減時代

イエス様は、それまでに造られた
祭壇、幕屋、神殿の主人として来られました。

ということは、歴史のすべての責任を負われて、
歴史の主人として来られたということです。

ですから、祭物時代という犠牲の時代は、
イエス様によって終わろうとしていたのです。

神が、「もう祭物はいいから、今この時に備えよ」と、
あらかじめ知らせ遣わされたイエス様だったのです。
旧約時代の終わりに、神と人類の目的を成就するために
来られたイエス様だったのです。

しかし、ユダヤ人にはそのイエス様を
受け入れる器がありませんでした。
その結果、イエス様は十字架の道を行かざるをえませんでした。

では、イエス様の十字架は
どういう意味を持つものなのでしょうか。


かつて、神はモーセをカナンの地に
導き入れてあげたかったけれども、
カナンに送り届けることができませんでした。

モーセもカナンに入りたかったのですが、
その心情を押さえて、「分かりました」と言って、
最後に山に登ったまま、
その死体はどこへ行ってしまったか分からないのです。

モーセは神と深い心情のやりとりをしながら歩んだのですが、
人間の五パーセントの責任分担の問題で、
神もどうすることもできない世界があったのです。


それをイエス様は、この十字架上でくぐり抜けていかれたのです。

ですから、十字架上での
イエス様の心の揺らぎというものもあるのです。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイニ七・46)
と言いながらも、最後には
「父よ、彼らをお許しください。
彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)
と言い残して、イエス様は逝かれたのです。

ですから、神は人類を許さざるをえませんでした。
その代わり、イエス様は十字架にかけられてしまうのです。
それが、キリスト教、新約時代の新しい出発点となっています。


この「新しい時代の出発」は、
「主の年」(Anno Domini,A.D.西暦紀元)という表現で示されています。
また、B.C.はキリスト以前(Before Christ)です。
そこで時代が、世界的にも、歴史的にも分けられているのです。

クリスチャンでもなく、何も知らない人でも皆、
「西暦」で計算して年代を見ているように、
自然にそのようになっているのです。
これが摂理というものです。


イエス様を迎えて旧約時代を終えた後に、
神様は天国を築きたかったのです。
天国を築くために来られたのに、
それを阻まれたイエス様の恨みはいかばかりであったでしょうか。

その恨みがキリスト教をつくったようなものです。
これが十字架による祭物時代の始まりだと言っても過言ではありません。

イエス様の実体を犠牲にして、罪人が生きるのです。
イエス様はご自分を供え物として、血を流しながら
神に赦しを乞うて、ご自分が聖別されると同時に、
サタンの侵入できないところを備えられたのです。

ですから、「自分を信じる者は救われる」としか言えなかったのです。
それ以上、イエス様は言うことができなかったのです。


「私(イエス様)を信ぜよ」ということが
イスラエル民族によって果たせなかったために、
サタンにやられてしまったのです。

その一言だけでずっと2000年間、イエス様は
霊界からキリスト教を引っ張ってこられました。
その力というのは恐ろしいものなのです。

ローマという強大な国を400年かかったとはいえ、
完全に覆してしまったのですから、
その力を見ただけでもイエス様とはただ者ではないことが分かります。

イエス様はこのように完全な犠牲の道を行かれたのです。
神は旧約時代に、ノア、アブラハム、モーセなどを犠牲にさせて、
本当に同情し、哀れに思ってこられたとしても、
イエス様の場合とは比べものになりません。

第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(2)実体の蕩減時代

父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)


イエス様の誕生によって、
歴史が大きく分かれていきました。

それは、旧約、新約というだけでなく、
紀元前、西暦紀元として、万民に認識されています。
イエス様をメシヤと信ずるキリスト教徒のみならず、
日本のようにクリスチャンの少ない国でも、
同じ認識をもっているのです。

そのイエス様と同じ道を行かれたのが、真の父母様です。
ローマを400年で覆されたイエス様のように、
お父様は霊界から、お母様は地上において、
世界を覆されるために歩んでおられます。

世界万民、少なくとも全人類の三分の一までが、
真の父母を知らなければならない、
と語られる真のお母様です。

その思いの背後には、
お父様、さらには、イエス様の
無念な思いを果たしたい、という
懇切な思いがあることを感じます。

私たちも微力ながらも、
その願いを果たすために、
少しでも貢献したいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 10:11 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする