2021年10月14日

「過去に経験した」ではなく、あらゆる人から学ぶ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「学ぶ姿勢を失うな」です。


理解したもので指導しようとすると、自分は発展できないのです。
指導者になって、だんだんと発展できなくなるのです。

なぜかというと、自分が指導者だと思っているからです。
伝道者だと思っているからです。

「伝道者は人を指導するのだ」という立場に立つと、
結局自分は、その型にはまってしまうのです。

あらゆる人から学ぼうとすること、
学ぼうとする態度がいつも大事です。

指導者は、学ぼうとする欲望をもっていれば、
その人に必要なものが分かるのです。

「何を教えよう。どういう原理を教えよう」、
こう考えると、自分というものが問題になるから、
いくら信仰生活を何十年やっても、
「新しい人にも学びたい」となるのです。

「どういう経験も、私はもうした。もうああいう経験は済んだ」と。
そういう過去のことによって、現在を貴重に思わないと、
結局、固まった欠点のある人になるのです。

だから年を取った人で、「現在」を、
自分も過去に経験した「現在」と思う人は、そこが間違っているのです。

「現在」というものは、きのうではないのです。
だから、いくらきのう自分がこれを経験していても、
きょうの経験は、全部性質が違うのです。


イエス様は、自分を絶対視しながらも、人の事情に巻き込まれたのです。
自分を絶対視しながらも、かわいそうな人には、
主管され、共に泣いた、そういうところがあるのです。

そこがイエス様の違うところです。

私たちは、絶対視すると愛情が流れないのです。
「原理」が思想に固まってしまうのです。

「原理」を消化した自然人間(本然たる人間)になるようにと、
人間を正常化する目的なのに、「原理」という
理念にとらわれてしまっているのです。

そうなると、結局一つの思想家になって、
豊富な人間性をもった人間同士の関係が崩れ、孤立しやすいのです。

私は「原理」を悟ったと、悟ったそのものに主管されて、
結局、盲目になりやすい危険性が私たちにあるのです。

そういう面もあるということを知り、
私たちの霊的成長を中心として、考えてみなければならないのです。

2.個人と教会の発展のために
「学ぶ姿勢を失うな」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


秋、真っ盛りとなってきましたね。
み言を訓読して「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
ということわざを思い出しました。

健康な人は御飯が美味しいと感じる、と言います。
訓読するみ言も新鮮に感じ、おいしいと感じる、
私たちでありたい、と思います。

真のお父様は、ご自身の語られたみ言を
何回も何十回も、いや無限に訓読されても、
新鮮さを感じられていかれました。

日々、発展できる者になっていきたい、
そのように思わされました。




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posted by ten1ko2 at 09:05 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする