2021年10月15日

イエスの十字架で、その身を犠牲にする殉教の時代がやってきた 《奈田先生》



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西暦の始まりはイエス様、
それは「殉教の時代」の始まりでもありました。

奈田先生のみ言。
「実体の蕩減時代」の後半です。

(2)実体の蕩減時代

神がそれはどの期待を懸けて送り込まれたイエス様を
人間が足げにしたために、神は前よりも
もっとつらい時代を過ごされることになりました。

殉教の道となって現れてしまったのです。

殉教の歴史は、日本のクリスチャンの道だけを見ても、
本当にひどい例がたくさんあります。

例えば、引き潮の時に海辺に子供を十字架にくくりつけておいて、
母親に刀を突きつけながら、改宗を遣るのです。

潮が満ちてきて、子供が海に飲まれていくのを見せながら、
心を変えるか変えないかと遣るのです。
あるいは、耳をそがれたりもしました。
このような例は数知れません。


殉教者の姿を見て、遠藤周作の小説『沈黙』にあるように、
人は「神はそんなにむごい状況になっても、
出てきてくれなかった。神は沈黙していた」というのです。

「序」でお話したニーチエも、
「神を求めてこんなに苦悩したのに、神はいない。
結局、神がいると考えた出発点が間違っていたのだ」
という結論になってしまったのです。

そのような人間もかわいそうですが、それを見ている神は
どんなにつらかったことでしょうか。
手を出すことも口をきくこともできなかったのです。
時を待たなくてはならなかったのです。


そういう中で、神とイエス様の苦悩の世界を見せられたのが、
クリスチャンの殉教なのです。

この地上に、これほどの犠牲は他にありません。
神ご自身が血を流し、十字架にかかったほうが
まだ楽かもしれないのです。

何千年も続いてきたキリスト教の歴史を見たときに、
文先生は、「柱にしがみついて、慟哭して、何日も泣いた」
と言われますが、神とはそういうところにおられた方なのです。

それが犠牲の時代の意味、祭物精神の意味であり、
理論的に神がそうであるから自分もこうしようというのではなく、
自然の発露から自分はこうあるべきだ、
となってくるのが本当の祭物精神なのです。

犠牲になることを誇りにするのではなく、
“当然”と見る立場が祭物精神なのです。


祭壇に立つ者の心については、詩篇二四篇4節に、

「手が清く、心のいさぎよい者、
 その魂がむなしい事に望みをかけない者、
 偽って誓わない者……」

とありますが、私たちはそういう
旧約的次元の祭物精神にもまだ達していません。

イエス様は自分が十字架にかかることが問題ではなくて、
神がそのしかばねをどう用いられるか、
その条件をどう残すことができるか、
その涙の一片を神がどう受け取ることができるか、
神が今後、私の信仰の一片を歴史を懸けて
どう用いることができるか、これが重要な課題であったのです。

私たちはそういうイエス様の祭物精神からは
ほど遠いと言わざるをえません。


ですから、イエス様を見るときに、

@死の苦しみの中にあっても、神を信じて、
 最後までその使命を果たしていこうとする精神(ルカ二三・43)

A大衆の前でいかなる辱めを受けても、訴えられ、
 侮辱されても、沈黙と忍従を通し抜く精神(同二三・9)

Bサタンにその身に対する非を認めさせない(同二三・4)。 
(それは、神の子であるという権威のもとにです)

C自分自身の死の苦しみを忘れるほどに、
 神のみ旨を愛し、人類や民族を思ってこられたイエス様であった(同二三・28)

D迫害する者のために祈られ、
 彼らの罪の赦しを神の前に乞うていかれた(同二三・34)。

こういう供え物の精神を、
具体的に聖書から学んでいきましょう。

第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(2)実体の蕩減時代

父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)


み言を訓読しながら、
イエス様のことを思い、涙を流されて説教された
お父様のことを思わされました。

お父様以上にイエス様のために泣かれた方はいないのに、
イエス様を信じてきたクリスチャンたちは、
お父様をもっとも迫害してきたのでした。

「イエス様の祭物精神からはほど遠い」
そのように言われる奈田先生ですが、実際には、
イエス様のご心情を求めに求められた方だと感じます。

先日、ある国家メシヤの先生が、
「聖書の土台の上に、原理がある」
と語られていて、日々、聖書を精読しておられるそうです。

イエス様、キリスト教に対しての認識を深める
必要性を感じましたし、
このあと、真の父母様の時代の祭物について
語られるわけですが、
新約に精通した上でこそ、
よく理解できると思います。





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posted by ten1ko2 at 06:30 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする