西暦の始まりはイエス様、
それは「殉教の時代」の始まりでもありました。
奈田先生のみ言。
「実体の蕩減時代」の後半です。
☆
(2)実体の蕩減時代
神がそれはどの期待を懸けて送り込まれたイエス様を
人間が足げにしたために、神は前よりも
もっとつらい時代を過ごされることになりました。
殉教の道となって現れてしまったのです。
殉教の歴史は、日本のクリスチャンの道だけを見ても、
本当にひどい例がたくさんあります。
例えば、引き潮の時に海辺に子供を十字架にくくりつけておいて、
母親に刀を突きつけながら、改宗を遣るのです。
潮が満ちてきて、子供が海に飲まれていくのを見せながら、
心を変えるか変えないかと遣るのです。
あるいは、耳をそがれたりもしました。
このような例は数知れません。
☆
殉教者の姿を見て、遠藤周作の小説『沈黙』にあるように、
人は「神はそんなにむごい状況になっても、
出てきてくれなかった。神は沈黙していた」というのです。
「序」でお話したニーチエも、
「神を求めてこんなに苦悩したのに、神はいない。
結局、神がいると考えた出発点が間違っていたのだ」
という結論になってしまったのです。
そのような人間もかわいそうですが、それを見ている神は
どんなにつらかったことでしょうか。
手を出すことも口をきくこともできなかったのです。
時を待たなくてはならなかったのです。
☆
そういう中で、神とイエス様の苦悩の世界を見せられたのが、
クリスチャンの殉教なのです。
この地上に、これほどの犠牲は他にありません。
神ご自身が血を流し、十字架にかかったほうが
まだ楽かもしれないのです。
何千年も続いてきたキリスト教の歴史を見たときに、
文先生は、「柱にしがみついて、慟哭して、何日も泣いた」
と言われますが、神とはそういうところにおられた方なのです。
それが犠牲の時代の意味、祭物精神の意味であり、
理論的に神がそうであるから自分もこうしようというのではなく、
自然の発露から自分はこうあるべきだ、
となってくるのが本当の祭物精神なのです。
犠牲になることを誇りにするのではなく、
“当然”と見る立場が祭物精神なのです。
☆
祭壇に立つ者の心については、詩篇二四篇4節に、
「手が清く、心のいさぎよい者、
その魂がむなしい事に望みをかけない者、
偽って誓わない者……」
とありますが、私たちはそういう
旧約的次元の祭物精神にもまだ達していません。
イエス様は自分が十字架にかかることが問題ではなくて、
神がそのしかばねをどう用いられるか、
その条件をどう残すことができるか、
その涙の一片を神がどう受け取ることができるか、
神が今後、私の信仰の一片を歴史を懸けて
どう用いることができるか、これが重要な課題であったのです。
私たちはそういうイエス様の祭物精神からは
ほど遠いと言わざるをえません。
☆
ですから、イエス様を見るときに、
@死の苦しみの中にあっても、神を信じて、
最後までその使命を果たしていこうとする精神(ルカ二三・43)。
A大衆の前でいかなる辱めを受けても、訴えられ、
侮辱されても、沈黙と忍従を通し抜く精神(同二三・9)。
Bサタンにその身に対する非を認めさせない(同二三・4)。
(それは、神の子であるという権威のもとにです)
C自分自身の死の苦しみを忘れるほどに、
神のみ旨を愛し、人類や民族を思ってこられたイエス様であった(同二三・28)。
D迫害する者のために祈られ、
彼らの罪の赦しを神の前に乞うていかれた(同二三・34)。
こういう供え物の精神を、
具体的に聖書から学んでいきましょう。
第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(2)実体の蕩減時代
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
三 祭物精神
(2)実体の蕩減時代
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
☆
み言を訓読しながら、
イエス様のことを思い、涙を流されて説教された
お父様のことを思わされました。
お父様以上にイエス様のために泣かれた方はいないのに、
イエス様を信じてきたクリスチャンたちは、
お父様をもっとも迫害してきたのでした。
「イエス様の祭物精神からはほど遠い」
そのように言われる奈田先生ですが、実際には、
イエス様のご心情を求めに求められた方だと感じます。
先日、ある国家メシヤの先生が、
「聖書の土台の上に、原理がある」
と語られていて、日々、聖書を精読しておられるそうです。
イエス様、キリスト教に対しての認識を深める
必要性を感じましたし、
このあと、真の父母様の時代の祭物について
語られるわけですが、
新約に精通した上でこそ、
よく理解できると思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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