奈田壽美子先生の「父母と共なる生活」
旧約、新約時代に続く「祭物精神」の3コマ目、
『心情(父母)の蕩減時代』です。
☆
ところでまた同時に、並行して考えなければならないことは、
ダンベリーに行かれたときの文先生のお姿です。
文先生は、長女の誉進様のお話の中にもありますように、
「いつも神様の心情を考えなさい」
と教えておられます。
文先生は弁護士まで慰められ、私たち、失敗した者が泣きわめく姿を見て、
「なぜ泣くのか」とむしろ、叱咤激励されながら、
どちらが刑に処せられる身なのか分からないような立場で
ダンベリーに入っていかれました。
このような文先生の計らいによって、私たちはまた救われたのです。
もし文先生が、「お前たちの罪によって刑務所に入るのだよ」
とでも言われたとすれば、私たちには行く場がありません。
だからといって、消えてしまうわけにもいきません。
それを、「さあ、これから始まるんじゃないか」
と文先生は言ってくださったのです。
☆
イエス様もまた、
「これから十字架によって新しい道が開かれるのだ」
と言われたのです。
キリスト教というのは、なくてもよかった道なのです。
神にはそういうものを新しく興すつもりは全くなかったのです。
それなのに、新たに宗教を興して、
犠牲の道を越えていかなければならなくなりました。
そのときイエス様は、新しい出発であると思われて
十字架にかかっていかれたはずです。
☆
先生もまさしくそのとおりです。
十字架をそのまま、生きながらにして
私たちに示してくださったのです。
文先生と一緒に刑務所に入った神山氏に尋ねてみると、
ダンベリーに入られた当時は、本当にひどかったといいます。
入る時にもいろいろな検査がありますが、
服を脱がされて検査をされているお姿を見ると、
「重要な神の使命を帯びた方がこんなことまでされて」と、
全く耐え難かったという証があります。
文先生ご自身はそのような屈辱のすべてを
甘んじて受けられながらも、
長女の誉進様などが心配されるお顔を見られて、
「そんな顔をしてはいけない。
いつも、何事もなかったように、
笑っていなさい。
ビッグ・スマイルで……」と言われました。
そのような文先生のお姿は、
正にメシヤの使命をもった方だと思います。
☆
文先生がダンベリーに入られたことにより、
私たちも一度死んで再び生き返って救われた立場に立ったのです。
「君たちもこれからダンベリーに入るように」
と文先生は言われました。
私たちは先生によって
そこから再び生まれ変わるチャンスを与えられたのです。
そうでなければ、そのときに私たちは霊的に死んで、
散り散りばらばらになっていたというのです。
☆
あのときの裁判の経過などを知ると、
文先生であるがゆえに受けられた裁判だと思わざるをえません。
弟子たちの不信仰がこういう結果を招いたのです。
それは正に内部告発だったのです。
イエス様の時もそうでした。
裁判の進行から、何から何までそっくりなのです。
「文先生を十字架に送ってはいけない」と言いながらも、
結局押し流されてしまう私たち弟子の弱さ。
☆
「一体私たちは、先生にとって何なのだろう。
自分が救われたくて来ただけだったのか」
と思わされました。
私はあの時、本当にさまざまに考えました。
だれが悪い、何が悪いではなく、
「私自身が何だったのか。
本当にくずのような自分でしかない」という反省のみでした。
しかし先生は、即座に解決の道を開いてくださり、
悪いことはすべてご自分で引き受けられ、
「君たちは蕩減しながらみ旨をやっていきなさい」
と言われました。
また刑務所から出てこられると、
「天国創建」だ、「祖国創建」だと言われ、
どこまでも壮健で力強い文先生であられたのです。
☆
そのように、文先生は
イエス様の実体的な蕩減をそのまま踏襲していかれたのです。
それが心情の蕩減であり、文先生の歩まれた道なのです。
ですから、文先生の道は簡単なものではありません。
サタンも簡単には許さないからです。
「生きた祭物」として、生きたまま血を流し、
生きたまま祭壇に上げられ、
生きたまま焼かれるという道だったのです。
しかも、死ぬことができないのです。
ですから先生は、実体で生き残るために、
ありとあらゆる健康法を見いだされたといわれます。
そのようにして、霊的にだけでなく、
肉体的にもいかに生き残るかを考えてこられたのです。
原理に従って、肉体を生き残らせてこられたのです。
☆
「今まで祭物は二つに裂いてささげてきたけれども、
裂いた祭物は死んだ祭物である。
祭物は本来死んだ祭物でなく
心身共に一つなる生きた者であるのだけれども、
今まで心と体、天と地は戦ってきて、
心は天、体は地のような関係にあり、
裂くということはその分別点を表して、
そこに蕩減条件の血を流し、
神にささげられてきた。
しかし、我々を神とサタンが認める立場に
おいては、心と体が一体となった。
死なずに生きた祭物として神にささげて、
新しく神から生きたものとして立たせる
その実体物とならなければ、
天国に立つことのできる真の天の親子、
天の子女になりえないというのだね。
いわゆる祭物を超えて
復活体となったものでなければ、
天国に入れないというのだね。
復活したイエス様は、殺された
汚れた肉体の立場からも復活したのだから、
我々においてそれ自体、心身共
そのまま復活しえたという基準を立てなければ、
天地とも完成しうる
地上天国に入れないというのだね。
だから死んではいけない」
「この天宙で一番かわいそうなお方は誰か。
神である。
それを慰める人は
この中に我一人しか残っていない。
そういう立場に立っている悲しみ、
先生の悩むその心の根底を探すなら、
一時に泣き出すような心情である。
そういう心情を中心としての生活を
連続していかなければならないのが、
復帰路程の蕩減条件下にある先生の立場である」
第三章 父母観(その二)
三 祭物精神
(3)心情(父母)の蕩減時代
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
三 祭物精神
(3)心情(父母)の蕩減時代
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
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真の父母様の歩まれた道は、
神様を慰め、人類を解放する道であり、
私心が一つもない道でありました。
その結論が「生きた祭物」の道なのだと思います。
そして、「人類」というのは、ほかならぬ、
「私自身」である、ということです。
ダンベリーは、1980年代のことであり、
私も判決がくだされてから、教会に導かれたので、
「過去のこと」と捉えることもできます。
しかし、客観的に見つめるのではなく、
「私の罪」ゆえにそのような道を行かれたのだ・・・
そのことをどれだけ感じ取ることができるかが、
一つの信仰のバロメーターなのだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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