2021年10月24日

この道を最後まで行かなければ何もならない! 《♪聖歌 わが身の十字架》



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わが身の十字架を
(たれ)に担わさん
主はこの道を先駆けしを …

十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う




世界平和統一家庭連合の「聖歌」を紹介するシリーズより
今回は、第一部28番「わが身の十字架」をお届けします。


作詞者の柳光烈(ユ・グァンヨル)先生は詩人で、
長年韓国統一教会(家庭連合)の文化部長を務めた人です。

作曲者の金斗琓(キム・ドゥワン)氏は既成教会の有名な作曲家で、
その弟子を通じて作曲を依頼することができたのです。

1959年8月28日の朝、柳先生は例えようもなく神が慕わしく
心情的に近く感じられ、熱い感慨が胸に溢れて
「お父様に何か申し上げたい。何か書きたい」
という思いがしたそうです。

その思いを書き留めようとして紙に向かうと
言葉が後から後から湧き出してくるので、
感動しつつ泣きながら書いたのがこの詩です。

その時胸に込み上げるものは
「最後まで行かなければならない。
いくら教会にいたとしても、最後まで
行かなければ何にもならない」という思いでした。

そのころを思い出しながら、
柳先生は次のように語っています。

「これは長年み旨の経験を積んだ人ならだれでも、
 わが気持ちとして実感できるでしょう。

 いくら手柄を立てても、いくら苦労をした実績があっても、
 最後まで行かなければ何の意味もないということになる、
 そんな気持ちを強く表した詩です。

 だから長年歩んできた人を、
 さらにさらに前へと激励する内容の歌です。

 迫害や風当たりの強い時代であり、
 お父様も非常に気を付けながら
 兄弟を育てていかれた苦しい時でした。

 私たちは果てのない道を
 いつまでも歩くような気持ちがいくらかあるのです。

 でも結局は必ず終わりが来るのです。
 力を尽くして歩めば、必ず成就する日が来ます。
 歩き尽くした時、行き着くのです」

(参照:『聖歌のめぐみ』)




この道を最後まで歩むことが
どれほど大切なことか、改めて感じました。

特にこの唄が作られた頃は
み旨を歩むことが大変厳しい時でした。

昔の多くの先輩たちは、馬の尻尾をつかむように
けして離さないように、とよく言われていたといいます。

学生時代にある先輩から聞いた証しです。

あまりにも歩むことが厳しくて、
教会から去っていこうと、こっそり抜け出したことがあった。
その時のマザー(青年部でお母さん的な立場の人)が
たまたま私の姿を見つけて、走ってきて教会に連れ戻した。

そのマザーは足が不自由な人だったのに、
走ってくるなんて。。。
それ以降、この道を離れようと思ったことはない。

そんな証を思い出しました。

昔の先輩たちの苦労があって、
今の私たちがあることを思って、
今もみ旨に苦労はあるかと思いますが、
最後まで行かなければ何もならない、
そういう思いを、かみしめながら
讃美していきたいと思います。

(下に歌詞を掲載)



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聖歌第一部28番
「わが身の十字架」

1.
わが身の十字架を誰(たれ)に担(にな)わさん
主はこの道を先駆(さきが)けしを
(たまわ)りし御旨(みむね)果たせずして
千歳(ちとせ)の歴史は血と涙
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

2.
身ニ過ぎし重荷、負わすべきや
強く歩まばわれは着かん
御旨に捧(ささ)げしこの身なれば
などてためろうや生命(いのち)の道
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

3.
御旨成すが為(ため)、耐え来し(たえきし)
子もまた共に戦わんや
成さずば苦労も無に等しく
戦い勝てば永久(とわ)の幸を
十字架背負いてわれは行かん
ゴルゴダかなたに勝利が歌う

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posted by ten1ko2 at 12:00 | Comment(0) | 聖歌・UCソング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする