2021年10月29日

心の中の善悪の葛藤を感じる人に 私は「だれのもの」か? 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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文鮮明天地人真の父母天宙聖和9周年記念 天寶大祝祭 (2021.10.10)


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
新しい章、『神に所有される者』より
「自分はだれのものか」です。

 
供え物の目的は、所有権を決定することです。

摂理上、供え物を仲保として、
堕落して中間位置にいる人物を本然の位置へもとかえし、
復帰する目的で、祭物というささげ物を
中心としたことを私たちは知っています。

私たち堕落した者の立場は、その本然の位置から離れて、
願わない悪主権に因縁が結ばれてしまいました。
ですからその因縁を清算し、元の位置へ戻り、
元の創造主に所有されなくてはならないのです。

本心において、本然の位置に戻ろうとするのが
私たちの本性であり、創造主の願いです。
それで今まで仲保者を立てて、教育を受けてきたのです。

 
だれしも、まず自分の存在位置が、
本来願わないものであることを相当感じるのです。

信仰している私たちは、み言を中心として自分を見るときに、
自分がみ言のとおりの存在でないということを明らかに感じます。

み言の教育を受け、み言を中心として自分の本心を味わってみると、
自分にはもう一つの部分があって、
思うとおりにいかない面を発見するのです。

だから、み言を受肉するということは、
今までの自分を分別し始めるということなのです。

み言を中心としての本心、み言を中心としての所有権、
み言を中心としての自分の本心を所有される、
だれかの言葉を中心とした自分になりたい、
これが信仰だと思うのです。

 
それでだんだん日を過ごしてみると、
初めにみ言を中心として暮らしてみた経験から、
やっぱり自分はこの主権に所有されなくてはならないと実感し、
もっと深刻になっていくのが、
信仰者のだんだんと体験することです。

だんだん、自分は確かに神のものだということを確信して、
それが一つの供え物、祭物精神というか、
だんだんと自分は自分でないと感じるようになるのです。

もちろん信仰する前も、自分に対しての悩み、
自分が自分でないことも悟ったはずですが、
み言を中心として自分を分別してみると、
確かに自分の中で二人が闘っていることを発見するのです。

それで、心も相当悩んで、ローマ人への手紙第七章二十二節に
書いてあるとおり、相当苦しんだのです。

苦しんだというのは、一つのみ言、絶対なるみ言によって、
自分が幾分か絶対者に所有されたから、苦しみ始めるのです。
この苦しみは、以前のものと内容が違うのです。
信仰する前の、矛盾を感じながら悩んだ問題とは違うのです。

 
み言を中心として自分が生き返った、
本心をもっての闘いによる苦しみは、
これは完全に分立するための苦しみです。

それで、旧約時代には半分に裂いて、
血を流さなければならなかったのです。

半分に裂いて、死亡の血を捨てなくてはならないというのは、
結局、私たちも自分を、み言を中心として分立して、
今までの堕落の情を完全に流してしまうことです。

つらさを味わう、何かの蕩減によって
今までのみ言を知らなかった自分を分別するその苦しみは、
み言を中心として自分を半分に裂いて、
死亡の血を流してしまって、
それから所有された人に再創造するために、
なくてはならないことです。

だから分立しないと、創造者の所有は始まらないのです。

 
そのため、信仰は、自分が自分でないことを、
まず深く確実に実感したあと、
自分はだれのものだとはっきりすることです。
そして、自分の存在位置を守るのが、信仰の始めです。

結局、自分はだれのものかをはっきりし、
だれを喜ばせるかということです。

この祭物は、要求する人の願いを成してあげるものです。
神様が私たちを救い、神様が子女を失い今までもち続けてきた
恨みをほどくための祭物だ、という問題になるのです。

だから相当、信仰者は大胆でなくてはならないのです。
悟ったあとには、自分が絶対者の要求によって
自分も絶対者のものだと感じるようになるのです。

神も私たちを自分のものだと思って絶対視しているし、
私たちも自分が神のものだと絶対視したあとに、
存在基台が確立していくのです。
定まっていくのです。
この信仰が、最後まで続くと思うのです。

結局、祭物精神は信仰動機であり、それは
信仰が始まって以後にはどうでもいいというものではなく、
また最後なのです。

動機であり、結果なのです。

 
これが神の祭物に対しての願い、
神様の私たちに対しての願いなのです。

この精神が、その信仰路程においてあいまいになると、
大変なことが起こるのです。

「お前は中間者であり、サタンと関係が結ばれている。
それを清算して戻れ、絶対者のものになれ」
というのが神の今までの教育です。

3.神に所有される者
「自分はだれのものか」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)



天から与えられたみ言は、
永遠・不変・絶対的なもの。。。

神様の真の愛は目に見えませんが、
その愛をわかるように表現したものが、
み言、だと思います。

ですから、み言を訓読し、
それを生活化することを通して、
永遠・不変・絶対的なものを、
私自身に取り入れることになります。

どれだけ素晴らしいことでしょうか。

以前、お世話になった教会長が、
原理を学ぶことは、たとれば、
整体を受けることと同じだ、と言われました。

み言によって、自分自身を正していくことができ、
よい状態に保つことができる。。。
それは、本当に感謝なことです。

受けることができることを、貴く、
ありがたく思いながら、今日もみ言を
受肉できるよう心がけていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 09:18 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする