李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
新しい章、『神に所有される者』より
「自分はだれのものか」です。
☆
供え物の目的は、所有権を決定することです。
摂理上、供え物を仲保として、
堕落して中間位置にいる人物を本然の位置へもとかえし、
復帰する目的で、祭物というささげ物を
中心としたことを私たちは知っています。
私たち堕落した者の立場は、その本然の位置から離れて、
願わない悪主権に因縁が結ばれてしまいました。
ですからその因縁を清算し、元の位置へ戻り、
元の創造主に所有されなくてはならないのです。
本心において、本然の位置に戻ろうとするのが
私たちの本性であり、創造主の願いです。
それで今まで仲保者を立てて、教育を受けてきたのです。
☆
だれしも、まず自分の存在位置が、
本来願わないものであることを相当感じるのです。
信仰している私たちは、み言を中心として自分を見るときに、
自分がみ言のとおりの存在でないということを明らかに感じます。
み言の教育を受け、み言を中心として自分の本心を味わってみると、
自分にはもう一つの部分があって、
思うとおりにいかない面を発見するのです。
だから、み言を受肉するということは、
今までの自分を分別し始めるということなのです。
み言を中心としての本心、み言を中心としての所有権、
み言を中心としての自分の本心を所有される、
だれかの言葉を中心とした自分になりたい、
これが信仰だと思うのです。
☆
それでだんだん日を過ごしてみると、
初めにみ言を中心として暮らしてみた経験から、
やっぱり自分はこの主権に所有されなくてはならないと実感し、
もっと深刻になっていくのが、
信仰者のだんだんと体験することです。
だんだん、自分は確かに神のものだということを確信して、
それが一つの供え物、祭物精神というか、
だんだんと自分は自分でないと感じるようになるのです。
もちろん信仰する前も、自分に対しての悩み、
自分が自分でないことも悟ったはずですが、
み言を中心として自分を分別してみると、
確かに自分の中で二人が闘っていることを発見するのです。
それで、心も相当悩んで、ローマ人への手紙第七章二十二節に
書いてあるとおり、相当苦しんだのです。
苦しんだというのは、一つのみ言、絶対なるみ言によって、
自分が幾分か絶対者に所有されたから、苦しみ始めるのです。
この苦しみは、以前のものと内容が違うのです。
信仰する前の、矛盾を感じながら悩んだ問題とは違うのです。
☆
み言を中心として自分が生き返った、
本心をもっての闘いによる苦しみは、
これは完全に分立するための苦しみです。
それで、旧約時代には半分に裂いて、
血を流さなければならなかったのです。
半分に裂いて、死亡の血を捨てなくてはならないというのは、
結局、私たちも自分を、み言を中心として分立して、
今までの堕落の情を完全に流してしまうことです。
つらさを味わう、何かの蕩減によって
今までのみ言を知らなかった自分を分別するその苦しみは、
み言を中心として自分を半分に裂いて、
死亡の血を流してしまって、
それから所有された人に再創造するために、
なくてはならないことです。
だから分立しないと、創造者の所有は始まらないのです。
☆
そのため、信仰は、自分が自分でないことを、
まず深く確実に実感したあと、
自分はだれのものだとはっきりすることです。
そして、自分の存在位置を守るのが、信仰の始めです。
結局、自分はだれのものかをはっきりし、
だれを喜ばせるかということです。
この祭物は、要求する人の願いを成してあげるものです。
神様が私たちを救い、神様が子女を失い今までもち続けてきた
恨みをほどくための祭物だ、という問題になるのです。
だから相当、信仰者は大胆でなくてはならないのです。
悟ったあとには、自分が絶対者の要求によって
自分も絶対者のものだと感じるようになるのです。
神も私たちを自分のものだと思って絶対視しているし、
私たちも自分が神のものだと絶対視したあとに、
存在基台が確立していくのです。
定まっていくのです。
この信仰が、最後まで続くと思うのです。
結局、祭物精神は信仰動機であり、それは
信仰が始まって以後にはどうでもいいというものではなく、
また最後なのです。
動機であり、結果なのです。
☆
これが神の祭物に対しての願い、
神様の私たちに対しての願いなのです。
この精神が、その信仰路程においてあいまいになると、
大変なことが起こるのです。
「お前は中間者であり、サタンと関係が結ばれている。
それを清算して戻れ、絶対者のものになれ」
というのが神の今までの教育です。
3.神に所有される者
「自分はだれのものか」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「自分はだれのものか」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
天から与えられたみ言は、
永遠・不変・絶対的なもの。。。
神様の真の愛は目に見えませんが、
その愛をわかるように表現したものが、
み言、だと思います。
ですから、み言を訓読し、
それを生活化することを通して、
永遠・不変・絶対的なものを、
私自身に取り入れることになります。
どれだけ素晴らしいことでしょうか。
以前、お世話になった教会長が、
原理を学ぶことは、たとれば、
整体を受けることと同じだ、と言われました。
み言によって、自分自身を正していくことができ、
よい状態に保つことができる。。。
それは、本当に感謝なことです。
受けることができることを、貴く、
ありがたく思いながら、今日もみ言を
受肉できるよう心がけていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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