2021年11月21日

私にくれた愛のムチで、アベルカインを知る 狭山公園での思い出 《小山田先生自叙伝》



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左は小山田先生


小山田先生の自叙伝より
「狭山公園での真のお父様のみ言」です。

第六章 日本の行くべき道とは
狭山公園での真のお父様のみ言

一九七〇年代に入ってからも、天の摂理の推進のために、
真の父母様は何度も日本を訪ね てくださいました。

真の父母様は、一九七一年十二月五日に
第三次世界巡回路程の出発の際も来日され、
一週間滞在されたあと、渡米されました。

世界を救うためには、アメリカでのキリスト教の
精神復興が重要なみ旨だからです。

そのようにして真の父母様は、
アメリカでの摂理を中心に投入されるようになりますが、
翌七二年と七三年にはそれぞれ三回、
さらに七四年と七五年にはそれぞれ四回と、たびたび来日されました。

たくさんのみ言を語り、指導し、
日本の食口たちを愛してくださったのです。


その中でも印象に残っているのは、
東京と埼玉の県境にある狭山公園で計四回にわたって
集会が開かれた際、語られた真のお父様のみ言です。

一回目が一九七二年四月二十六日で、
この年の最初の御来日でのことです。

全国から約二〇〇〇人の食口たちが狭山公園に集う中、
み言を語ってくださり、アメリカに続いて
日本での「世界統一十字軍」(十二団)を編成してくださいました。

二回目は同年五月六日、「神様と我々」と題して、
狭山公園でみ言を語られました。

三回目は一九七二年七月十一日、
狭山公園に静岡以北の食口たち約二五〇〇人が集まり、
真のお父様が長時間にわたってみ言を語ってくださいました。

その翌日には、兵庫県の宝塚研修所に名古屋から南の食口たちを集めて、
「信仰の一念」と題してみ言を語ってくださったのです。
四回目に狭山公園に来られたのは
一九七四年五月九日で、全国信徒大会が開かれました。


狭山公園で語られた数々のみ言の中で、
印象に残っていることに触れたいと思います。

「アベルを打ってカインを悟らせる」との内容です。

真のお父様は竹竿を持ちながら、み言を語られました。
私は、お父様のすぐ前に座っていました。

お父様は私を見ては厳しく叱るかのように、
ときどき竹竿で叩かれるのです。
それはお父様の愛の作戦です。

当時、会長代理を担当していた私をあえて厳しく指導することで、
周りの食口たちを覚醒しようとされたのだと思います。

お父様からまるで風速一○○メートルの勢いで打たれるようでしたが、
私の仕事は、それをじっと感謝で耐えることだったのです。

小山田秀生 自叙伝
「真の父母様の御跡を慕って」より
第六章 日本の行くべき道とは
狭山公園での真のお父様のみ言


お父様が竹竿で叩かれる・・・
小山田先生に「お前を全体を覚醒するため、
身代わりに叩くから、感謝して受けるように」
そう言って叩かれたのではないでしょう。

小山田先生が悟られて、痛かったとしても、
感謝して受けることをお父様が願われました。
なので、全体も正されたのだと思います。

私たちも中心(アベル)を通して試練を受けた時、
感謝して受けること、甘受することが
どれだけ重要であるのかを悟らされるのです。



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2021年11月20日

自分の心配ばかりしていた私が、神のものになると・・・  《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「神に所有される者」の〆です。

神に所有された自分

私たちは、分別したあとには、
自分のものでない力を所有した体験をするのですが、
その所有した自分というのは、
結局、神に所有された証拠なのです。

モーセを通じて十戒を与えながら
イスラエル民族は神のものだと、
三回の奇跡や十災禍を通してイスラエル民族は神のものだと、
何か与えたあとに神のものだというのです。

生命に原力を与えたのちに、
お前は私のものだと教えてきているのです。

神は所有する時は、必ず、サタンより以上
力のある、価値のあるものをくれて、
「君は私のものだからこれをやるのだ」と、
こういうふうに神は私たちを育てていっているのです。


神は絶対にうそは言わないのです。
いくら蕩減の道を歩いても、死亡の道を歩いても、
神はうそは言わない。

だから、いつも蕩減路程を歩いても、
いかに苦しい道を歩いても、神に対して
愛情あふれる、感謝あふれる道を歩くようになるのが、
神との関係を結んだ人の実情なのです。

乏しいながらも、自分は忍んで行くというと、
霊的には涸れていって、結局、外的な条件をもって
自分はイスラエル民族だと思ったのが、
すべてのイスラエル民族なのです。

掟なら掟を生命視しながらも、自分は感謝の念もない、
あふれる愛もない、人間同士の愛情がみな
涸れてしまっている、そういう祭司長たちの状態です。

その結果、メシヤを見ても分からなくなってしまったのです。

 
だから、自分が所有された証拠があれば、
所有した人にすぐ通じるのです。
神のものと通じるのです。

サタン側の素性をもって、自分が悲しくなったり、
不平をもったりすると、必ず不平をもっている人と通じる。

教えてやらなくても、祈らなくても、大勢の中で
だれだれがということを、個人的に交わってみなくても、
不平をもつと、不平をもつ人とよく通じ、
お互いに授受しながら付き合うのです。

それだから、よみがえった者、すなわち
自分と神との関係がはっきりした人は、
神の味方にいる存在を考えなくても、
通じるようになっているのです。

 
だから、まず絶対者との因縁が一つのスタートであって、
これを最後までもっていって聖別されていくのです。

そのようにする目的はどこにあるかというと、
天宙的な目的をもって、神が私たち一人一人に
付き合っているという、こういう二重目的観からなのです。

私たち一人一人を所有する神は
歴史的であり、永遠であり、天宙的であり、
私たちを霊界の人全体を代表として、
地上の人全体を代表としてそうするのだ、
というようにそれを育ててみながら感じてみると、
実にそうなのです。

今までその立場に立つ前には、自分の心配ばかりしていた。
ところが、み言を通じてよみがってみると、自分の問題よりも、
その社会問題がつくづく悲しくなってくるとか、
もっと国家問題に、本当に自分の問題より以上に関心をもつようになる。

これはなぜかというと、私たちを所有した神が、
私たちを所有する目的がそうであるから、
その心情が自分を通じて、だんだんと広がっていくのです。

だから、自分より相手のことに、つくづく自分の事情のごとく
痛みを感じ、それを実感する人は、
生まれながらすぐれた心情をもった人なのです。

3.神に所有される者
「神に所有された自分」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


私自身が分別され、聖別されることで、
神様に所有される私になる、
そうなると物事の見つめ方が、
まったく違ってくる、ということなのだと思います。

今までは、自分の事情のことしか考えていなかったのに、
社会のこととか、ほかの人のこととか、
神様の心情にたって感じることができるというのです。

それが真の父母様ですし、真の父母の子女たる、
私たちでなければならない、ということなのです。



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posted by ten1ko2 at 07:32 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月19日

再臨主が韓国に誕生した理由  *文氏家門の人柄と美徳とは* 《史吉子先生》



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忠母様(文鮮明師の母)


史吉子(サ キルジャ)先生のみ言
「再臨主の家門(文氏)の
共通した性稟と蕩減の役事」前半です。


主がこの地に来られましたが、
ではなぜ、主が文氏なのでしょうか?

文氏には共通点があるそうです。
どんな共通点かと言うと、犠牲と奉仕の精神に富むのです。

文氏は概して、寛容で
他人を利用しようとする心が無いそうです。
むしろ人に利用されても、
恨まずに心優しいところが多いのです。

お父様が例えて言われたのですが、お父様のお父様は、
大変心優しい方だったそうです。

それでお父様は、私たちに
お父様のお父様を忠父様、
お父様のお母様を忠母様
とお呼びするようにとおっしゃったのです。


昔はおじいさんたちが、タバコの葉を乾燥させた
粉状のタバコをキセルに詰めて吸っていました。
それでタバコ屋で一箱、二箱と売るのではなく、
袋にタバコの葉を入れて袋詰めで売っていました。

ところが、お父様がお生まれになったその村は、
小さくてお店が無かったそうです。
それで専売所として、タバコを数十袋、
毎月売ってくれと忠父様に任せたそうです。

言うなれば、委託販売です。
全部売った後で、手数料を少しもらいます。

ところが、専売所では月末になると集金に来るのですが、
忠父様は「タバコが全部売れずに、
まだ何袋か残っているが、
これはどうしたものかな?」と心配されました。

そのように心配されたところ、一つ方法が浮かんだそうです。
タバコの袋が5袋残っていたら、同じ量を入れてあっても、
人はどれがたくさん入っているかなと言いながら、
あれこれと触ってみるそうです。

そうすると、タバコの粉が段々と下に落ちます。
それで上の方に隙間ができます。

それで、忠父様がハサミで
5つの袋の上の部分を切ったそうです。
そうして、その隙間にタバコの葉を一杯に詰められたそうです。
5袋が3袋になり、2袋は無くなるのです。

ところが、忠母様は
とても経済的な考えを持っておられたそうです。
忠母様は、現実的であったそうです。

それで、忠父様に
「どうして、このように馬鹿なことをなさるんですか?
私たちがタバコの袋の中から
タバコを取り出してもいないのに、
これを詰めかえたら、2袋分は誰が払うんですか?

私たちが弁償しなければならないじゃないですか。
手数料はおろか、無駄金を
弁償しなければならないなんて、
そんな馬鹿なことをしないでください。」
とおっしゃったそうです。

そうすると、忠父様は
「違うよ。私を信じて会社が任せてくれたのに、
私が全部売ってお金をやらなきゃな。
損をするのは、私はかまわない。
その方が気が楽だ。」とおっしゃったそうです。


それから文氏は大抵...。
私たちは誰かにお金を貸してあげた後、
いくら待っても返さない時は、その家を訪ねて行きます。

「お金をくれ」と催促に行くのですが、
「お金をくれ」と訪ねて行った文氏よりも、
その家がひどく貧乏な時は
「お金をくれ」と言うこともできず、
自分が持っているお金を全部叩いてあげてしまい、
そのまま無一文になって帰って来たそうです。

それ程、寛容だったそうです。


そのように善良で、寛容な
文氏の一族にメシヤがお生まれになったのです。

もし韓国に、善良で、犠牲精神と奉仕精神この上ない
文氏がいなかったら、メシヤが来られなかったそうです。

韓国にメシヤが来たのは、私たちの先祖たちが
苦痛の中で耐え抜いた蕩減歴史もありましたが、
特に文氏がいたからだそうです。

文氏がいなかったら、
主が来られることができなかったと言われました。

わが国の5千万人余りの人口で、
文氏が40万人を少し越えるそうです。

史吉子/ 著「原理によるみ言の証」
第1章総序論
再臨主の家門(文氏)の共通した性稟と蕩減の役事


真のお父様(文鮮明師)の故郷は
通称「文村」と呼ばれていました。
家訓は「家を訪ねてくる人を
良く接待してあげること」であったといいます。

忠父様の「タバコの証し」にもあるように、
ために生きないと苦しい、というくらい
情の根底が「ために生きる」だったのですね。

まさに奇特な、”神”のような家門、
その血筋を受けついで生まれたのが
真のお父様でした。

真の父母様による、この貴いみ言を
知ることができた私たち。

考えてみたら、このようなみ言を
受け入れることができた、ということ自体、
私一代の力でできたものではないでしょう。
私たちの背景も、功労があるからに違いありません。

だからこそ、今度は私たちの後孫のためにも、
私の代で、ために生きる家系を築く、
そのような努力をする必要があると感じます。

真のお父様を生み出してくださった韓国と
貴い家門を残してくださった
文家に感謝したいと思います。




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posted by ten1ko2 at 09:40 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする