李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
今回は、『神の悲しみをほどく』です。
☆
旧約時代からずーっと、祭物を中心にして、
幕屋を中心にして、預言者を中心にして、私たちを育ててきました。
それは、「お前はイスラエル民族だ、
ヤハウェはお前のものだから、ヤハウェの願いは
お前の生活そのものでなければならない」と教えてきたのです。
これを今まで私たちは学んできました
☆
そこで私たちは、どれほどの祭物精神をもって、
主体者の恨みをほどこうとするのか。
どれほど忠孝心、愛着心をもっているかが問題になるのです。
私たちは神のものだというその奥には、
神御自身が「汝は神のものだ」という所有権を
実感しなくてはならないのです。
その実感によって、私たちが体恤するのは心情です。
その実感によってどういう心情が与えられるかというと、
神の恨み、悲しみを感じるのです。
☆
そのあとに、どういう責任をもつようになるかというと、
神の悲しみをほどこうとするのです。
使命がそこから出発するのです。
自分がどの立場だと決定できずには、
使命感がわき上がりません。
決定したあとに、何か自分でない情が生まれてくるのです。
これは、自然にこうなるのです。
だから、神が悲しむのだなあ、ということを感じるのです。
☆
そのあとには、行く道が違うということを体験するのです。
それで、結局は深く入ってみると、私たちが
神に何か目的があって信仰したのではなく、
要求する神様から私たちに言えない願いがあった
ということをつくづく感じる人が、
結局、存在位置を得るのです。
主管者との関係を結んだ証拠になるのです。
その面が私たちに与えられないと、
一方だけでは「自分は神のものだ」と言えても、
「神に献祭した者だ」とは言えないのです。
だんだん奥に入ってみると、自分が自分でないという
心情を通じて、どうしたら神の恨みをほどくかということが、
自分の知恵で、自然とわき上がるのです。
その悲しみや恨みを、神からは
なかなか私たちに言えないのです。
所有されたあと、情的に授受してみると、
その主体者の事情を深く感じるのです。
そして同じく暮らしてみて、
神の内容をだんだんと知っていくのです。
言葉で教えてくれるのは、内的神との関係ではありません。
結局、それは生命ではないのです。
言葉をこう聞くのは、その言葉の裏面に、
何かまた与えられるということです。
☆
だから、私たちが「原理」を読んではいたけれど、
別にその内的な実感がなかったのに、
あるいはいつも知っていた内容で、
相当刺激を強く受ける時があるのです。
それはなぜかというと、その人の内面的な条件が立って、
何か神の願いはないかと尋ねる時に与えられるのです。
大先生がいつもお話しされるように、
「関心のないところに成功はない」、
「関心のないところに自分の結果は現れない」
ということです。
☆
信仰の本当の精神は、「絶対者のものだ」
と自分を信じることなのです。
今までの私たちの信仰は、まず自分が
神を信仰するのだ、と思ったのです。
はっきり言ってみれば、自分がなぜ
自分を絶対視するかというと、
み言によっての所有体験をしてみると、
結局自分は自分でないと感じるからなのです。
み言を通じてよみがえったその生命をもち、
自分が自分でないということを実感したあとには、
自分を信仰しなくてはならないのです。
☆
なぜなら、もう非原理的な面を分別したからです。
分別する前には、自分を絶対視する自信はないのです。
いくら自分が一方だけで信仰しても、
何も与えられないから、何も力が来ないのです。
力が来ないのはなぜかというと、
まだサタンとの関係の未練があるからです。
未練のある者がいくら信仰しても、片方の信仰であって、
結局、自分自身の力を中心として信仰しているのです。
自分が自分でないことをつくづく感じるのは、
その悪主権から分立したのちに、
神から与えられた何かの力によってです。
自分を否定できないというのは、
否定してくれる力を与えられていないからです。
それがないと自分を否定できないのです。
それ以上の価値のあるものを所有してから、
捨てるのが、人間の本性です。
これを捨てたなら、この倍の価値のものを与える
といったら、捨てる自信が出るのです。
3.神に所有される者
「神の悲しみをほどく」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「神の悲しみをほどく」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
ヨハネ先生のみ言というのは、
私が読み解く能力がないこともありますが、
なかなか難解だな、と思うことがあります。
これは、韓国人であるヨハネ先生が
日本語で語られたものなのか、
韓国語を翻訳したものなのかわかりませんが、
そういう言語の問題も多少あることでしょう。
今回のみ言も、ちょっと高度で深いので
簡単に読み過ごすと
なかなか心に入ってきませんでした。
さらにじっくり読ませていただく中に、
「神様と私の関係をはっきりさせること、
そのことによって、自分が分別され、
神様の恨み、心情を感じ、神様の悲しみをほどいていく」
ということを訴えておられるのだな、
と、感じることができました。
私は、「神様に所有される者」であるのだ、
そのことを常に意識して信仰していく、
そのような者になっていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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