松本ママの「信仰は火と燃えて」より
今回は、『青年宣教師との出会い』後半、
いよいよ西川先生との運命的な出会いです。
☆
ちらっと見ると、よれよれのズボンにジャンパーを着て、
変な髪型の乞食(こじき)のような青年が立っていました。
やせこけて骨と皮だけのようで、
顔ははたけができてむけています。
私は、宣教師といえば
立派なダブルの背広でも着ていると思っていたので、
「なんだ貧弱な青年だな」と思いました。
そして、型どおりのあいさつのあと、
セールスを4年もやったふてぶてしさで
「あなたは神様がいると思いますか」と聞いたのです。
☆
すると、その青年は下を向いたまま
「神様は生きています」と答えました。
私は驚きました。
「私は長いことクリスチャンですが、
神様を見たことがありません。
神様はどこにいるんですか。
神様が分からないのが悩みなんです。
病気が治ったら神学校に行こうと思っているんです」
するとその青年は、話してきました。
「もう神学校に行く時間がありません」
「どうしてですか」
「世の終わりが来るんです」
「えっ、ではイエス様が来られるんですね。
でも何百年かあとでしょう」
「聖書には、時のしるしを見よと書いてあります。
今、世の中は道徳はすたれ、人々は戦争の準備をしています。
今やボタン戦争が行われようとする時代です。
メシヤは、ボタン戦争が済んだあとに来たところで、
いったい誰を救うんです」
「じゃ、今じゃないですか」
「そうです」
「どうして分かるんですか」
「聖書にそう書いてあります。
私は天から啓示を受けました。
あなたに納得のいくように話すこともできます」
☆
確信をもって語られる言葉に感動し、
私はすっかりその青年を見直していました。
乞食のような格好をしていますが、
目は澄んできれいですし、とても純粋な顔をしています。
話を聞きながら、これはすばらしい人を見つけた、
この人の話を絶対に聴こう、この人について、
いろんなことを質問してみようと、
私は畑に埋められた宝物を見つけたように
喜びに胸を踊らせていました。
☆
青年の言う聖書原理というものを早く聞きたくて、
翌日、さっそく出かけていきました。
西川先生は、私がイエス様の話ばかりするので
救世原理から始めました。
それを聴いているうちに私はどんどん興奮してくるのです。
イエス様の十字架は人間の罪を赦(ゆる)すために
神の予定としてあったと思っていたのにそうでなく、
イエス様は人間の不信仰によって殺されたのだと、
全く違うことを言うので、びっくりしてしまいました。
☆
もっと驚いたのは、講義をする西川先生の姿でした。
目をらんらんと輝かせ、涙を浮かべながら、
イエス様の胸のうちを語るのです。
顔は興奮してピンク色に紅潮し、
汗をだくだく流しながら黒板をたたいて、
「アバ父よ、願わくはこの苦杯をとりのぞき給え、
四千年の歴史を経てやって来た私が、
使命を全うせずに行かなければならない」
というクライマックスをすごい迫力で語るのでした。
私一人を前にして、大勢の人に語るような真剣な講義に、
私は胸が高まり、大きな声で泣きたくなってしまいました。
☆
年齢も33歳ぐらいですし、もしかしたら、
その青年はイエス様の生まれ変わりではないだろうか
と思ったほどでした。
そして自分がイエス様を十字架につけた人間の一人だ
ということが分かってくると、イエス様が
昔の恨みを私に言っているような気がして怖くなってきました。
そこで、私は勇気を出して
「あなたは誰ですか」と質問してみました。
すると青年は「私が誰であるか祈ってみなさい」
と言うではありませんか。
私は何が何だか分からなくなり、
早くその場を逃げ出したい思いで帰途に就いたのでした。
☆
2000年前イエス様を証しした洗礼ヨハネは、
荒野で修行をし、いなごと野蜜を食しながらの、
本当に清貧な生活を送っていました。
西川先生の姿もかつての洗礼ヨハネのごとくでありました。
まさに現代の洗礼ヨハネ、と言えるでしょう。
西川先生が松本ママに対して、大声で語られる姿。。
お父様が草創期のころ、数少ない食口たちの前で、
大声で説教される姿を彷彿とさせます。
この西川先生との運命的な出会いが、
(当時の)日本統一教会の出発であり、
原点であることを思うと、
神様もイエス様も注目する、
歴史的名場面だったのです。
「逃げ出したい思いで帰途に就いた」松本ママでしたが、
結局は西川先生の下に戻ってこられたのは、
とても惹かれる思いがあったからでしょう。
次回も楽しみです。。。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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