松本ママの『信仰は火と燃えて』より
「一粒の麦として」
いよいよ、最初の40日開拓伝道に出発。
ちょっと長いですが、熱い思いが伝わる証しです。
☆
横浜、大阪、京都、広島、仙台と、みんなそれぞれの任地が決められ、
私は名古屋へ行くことになりました。
たった一人で伝道費を稼ぎ、講義をし、
40日間で最低3人の人を伝道して、教会の基盤をつくるのです。
そんなことが果たして私にできるだろうか。
私はとても心配で、西川先生に
「本当にできるでしょうか。万一できない場合は
どうしましょう」と聞いてみたのです。
すると先生は、「信仰と努力さえあれば絶対できます。
あなたの運命を決する開拓ですから、
真剣にやってください」と励ましてくださいました。
聖書に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」
とありますが、まさに私は、名古屋のためにすべてをささげよう
と決意して、この開拓伝道に出発したのでした。
☆
イエス様は、弟子を開拓伝道に出す時に、上着も下着も持たないで、
着の身着のままで行けと言われましたが、
私は西川先生に許していただいて、ブラウス2枚、スカート2枚、
下着2枚を持って行くことにしました。
そしてスカートにパンフレットを入れるための
大きなしっかりしたポケットをつけ、
名古屋に向かって出発する準備をしたのです。
この出発に際し、下の娘が
「お母ちゃん、病気になって倒れないでしっかりやってね」
と言って5000円をくれました。
私はその娘の心がうれしくて、その喜びを
より大きなものとするために、5000円のうち3000円を、
やはり一人で開拓伝道に行く姉妹にあげたのです。
その姉妹は「まあ、これ全部くれるの」と言って喜んでくれました。
☆
1961年7月20日夜11時ごろ、名古屋に出発する私のために、
西川先生は朝から晩までくず屋をしたお金をまとめて
片道切符を買い、小遣いとして1000円をもたせてくださいました。
そして真心込めてお祈をしてくださり、
見送りの兄弟姉妹と一緒に聖歌を歌い、
万歳、万歳と言って送ってくださったのです。
私は、うれしいやら恥ずかしいやら不思議な気持ちでした。
汽車がホームをすべり出し、西川先生との距離が遠くなると、
先生に愛され、指導されてきた日々が思い出され、
感謝の思いが込み上げてくるのでした。
けれども、列車が東京をすっかり離れてしまうと、
先生のことも東京のことも一切忘れて、
それ以上にこれから行く名古屋のことを考えていました。
名古屋はどんな所だろう。
40日私はできるだろうか。
様々な心配と不安が心をよぎり、
まんじりともしないで夜汽車に揺られていたのです。
☆
少しうとうとしたかと思うと、翌日の早朝名古屋に着きました。
汽車を降り、トランクを荷物預り所に預けると、
まず名古屋で一番高いと思われる名古屋城に上りました。
そこから名古屋市内を見下ろすと、
焼け跡にぽつりぽつりと家が建ち、
名古屋駅は工事中で雑然として、
町全体にどんよりと深い霧がかかっていました。
その名古屋の町を見下ろしながら、
私は天の前に決意のお祈りをしたのです。
「天のお父様、私は必ずこの名古屋の地で、
あなたのために働く人を探します。
どんなにサタンが大いなる力をもって迫ってきても、
必ず勝ってみせます。
どうか天のお父様、名古屋の市民を祝福し、
私に力を与えてください。
あなたが予定した人に会わせてください」
祈り終わると、もうその瞬間から心があせるのです。
名古屋では自分一人しかいない。
自分一人で独立独歩、ただ無形なる神を信じて行かなければならない。
だから、もう一刻の猶予(ゆうよ)もならない。
そう思うと、寝ることや食べることなどとても
考えるどころではなく、早く誰かに会って
み言(ことば)を伝えたいと思うのでした。
☆
そこで、急いで城を下りてバスに乗ると、バスガールに聞いて、
名古屋で一番にぎやかな町に降ろしてもらったのです。
そこは栄町という所で、デパートらしいみすぼらしい建物の前を、
たくさんの人々が往来していました。
バスから降りて四方八方を見回すと、十字架の掛かった教会が見えましたので、
私は迷わずその教会に向かって歩いていきました。
私は、新しい真理である「統一原理」を、
まず私の兄弟姉妹であるクリスチャンに伝えなければならない
という心情から、クリスチャンを最初に伝道することに決めていたのです。
教会のドアをたたくと牧師夫人が出てきたので、
「私は東京から来た伝道師ですが、
今晩一晩ここに泊めていただけないでしょうか」と聞いてみました。
夜、牧師が帰ってきたら、いろいろ話をしようと思ったのです。
ところが日本キリスト教団でない人は泊めるわけにはいかない
と言うではありませんか。
そこで私は「日本キリスト教団でなくても、
同じ神を信じキリストを信じている兄弟じゃありませんか。
庭の隅でも結構ですから、今晩だけでも泊めてください。
もう一度夕方に参りますからお願いします」と言って、
この教会に、栄えと祝福を与えてください、とお祈りして出てきました。
☆
その教会を出ると、すぐ次の教会を探して電車に乗りました。
するとちょうど仏教の尼さんが乗っていたのです。
人に話しかけることは大変勇気がいるものですが、
早くみ言を伝えなければというはやる心に押し出されて、
旅の恥はかき捨てと、思い切ってその尼さんのそばに歩いていきました。
そして、私は神様の娘として、
神様の大任務を負ってきたんだという気持ちで、
「もしもし尼さん」とやさしく声をかけてみたのです。
「私はキリスト教の伝道師ですが、仏教もキリストも、
宗教のあり方は違っても目的は同じだと思います。
あなたがなぜ尼さんになったのか、
そういう証(あかし)を聞かせていただけませんか」
私がせっぱ詰まって熱心に話したので、
それに圧倒されたのかどうか分かりませんが、
2人で電車を降り、喫茶店に行くことになりました。
私はお茶やケーキをすすめながら、彼女の話を聞きました。
私は特に西川先生から、
「相手の話を最後までよく聞いてからあなたの話をしなさい。
相手の話を途中で折っちゃいけませんよ」
とよくよく注意されていましたので、
分からない話でも忍耐強く聞いたのです。
そして今度私が語る番になると、持ち前の早口で、
立て板に水を流すように話しました。
「人間は何もないところで話し合うことはできません。
神様の話をするためにも、食べ物が仲保の役割をしてくれます」
これも西川先生のよく用いられた例えの一つで、
私はその言葉のごとく実行したわけですが、
ここで早くも800円というお金を遣ってしまいました。
名古屋に着いた時、私の手もとには3000円があるだけでした。
ですから私は、これがなくなる前に何とか誰かを伝道しなければと思い、
朝と昼は水を飲んで
夜だけ次の日の活力をつくるために食事をすることにしました。
駅の近くにある大衆食堂で、みそ汁付で50円のどんぶり御飯を
夜だけ食べて40日間やってみようと決意したのです。
☆
そうして一日中歩いて、夜の8時ごろ、
その食堂でどんぶり御飯を一杯食べてから、
最初に行った栄町の教会に行ってみました。
もし追い出されたら駅の中で寝ようと思っていたのですが、
私の寝る部屋を準備して、蚊帳(かや)をつくって待っていてくれました。
けれども牧師は会ってくれず、
「今晩だけです。もう来ないでください。
統一教会はよく知っています。
これ以上話す必要はありません」
とピシャッと言われてしまったのです。
私は「はい、分かりました」と言って、
泊めてくれた温情に感謝して、
「どうぞこの教会が栄え、神様のみ旨にかなった
教会であることができますように。
そして早くこの教会が『統一原理』を受け入れてくれますように。
どうぞ天の父よ祝福してください」
と、祈ってやすみました。
翌朝早く、感謝の祈りをしてその教会を出ました。
☆
この日はまず黒板とチョークを買いました。
きのうの尼さんと、朝の九時に公園で会う約束でしたから、
それを持って急いで公園に行くと、彼女もちゃんと来ていました。
そこでさっそく、芝生の上に座り、創造原理の講義を始めたのです。
ところが、私にはまだ、赤ちゃんにおっぱいをやるような
やさしい話し方は分かりません。
彼女は理解しようと努めながらも、居眠りを始めるのです。
それでも私は、汗をだくだく流しながら真剣に語りました。
あす再会することを約束して彼女と別れたのが午後3時、
まだ2日目なのに何日も過ぎたような気がして、心はあせるばかりです。
☆
それからまたバスに乗り、お寺でも、天理教の教会でも
どこへでも行って、質問したり話をしたりしました。
けれども、どこへ行っても、私の話を
真剣に聴こうとする人には会えませんでした。
どんなに立派な話をしても、感心はしてくれても、
それ以上聞こうとしないのです。
まっ黒な顔に変なブラウス、変なスカートをはいた
すごいおばさんのスタイルを見ただけで、
「あなたの話を聞きましょう」とは言わないのです。
そうして2日目の夜は、駅のガードの下で、
ボール箱を敷き、壁に背中を寄せて眠りました。
3日目は、蚊にさされながら公園のベンチで寝ました。
公園にはあちこちに人が寝ていましたので、私も、
黒板を持って、ショルダーバッグを背負って、
公園で寝ることにしたのです。
☆
3、4日目は、キリスト教会を探して歩きましたが、
どこへ行っても「聞きたくありません。
出ていってください」と追い出されました。
ある教会では、「あなたは立派なことを言っていますが、
それはサタンです」と言って私を押し出し、
ドアをピシャリと閉めてしまいました。
一日中あちこち歩き回り、
夜は公園のベンチで寝る生活が4日間続きました。
もう体はくたくたに疲れ、5日目の夜には
全く疲労困憊(こんぱい)していました。
けれども心はあせるのです。
あと35日しかない、どうしようと。
☆
私は毎夜、公園の中で、
「天のお父様、どうか明日は、名古屋で立つべく
予定した人に会わせてください」と必死で祈りました。
今の私にとって話し相手、訴える相手は神様しかありません。
ですから、人から見たら気違いではないかと思うほどに祈るのです。
歩きながら祈る、起きても祈る、座っても祈る、
祈りはもう欠かすことができないのです。
どんな時にも「天のお父様」と呼びながら祈りつつ歩み、
きょうも何の実績もないまま、5日目が終わろうとしていました。
松本 道子・著
(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
信仰は火と燃えて 5
一粒の麦として
☆
伝道師松本ママの開拓の任地は、名古屋からでした。
最初から勝利の道を行かれたのではなく、
否定の道を歩んでいかれました。
夏とはいえ、ガード下や公園で寝たとは
信じられないことですね。
その当時のお金の価値は、簡単には換算できないようですが、
ある見かたでは10倍くらいのようです。
松本ママは、様々な否定、迫害を受けながらも、
決して諦めない心情があったので、
そのあと、天が準備してくださったのだな、と思います。
開拓の時代と現在は、環境が違いますけれど、
天の前に誓ったものは、必ず成す、という
貴い心情は、絶やさないようにしていきたいと感じます。
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posted by ten1ko2 at 08:23
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草創期の証し(韓国・日本)
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