本部の蝶野知徳(ちょうの とものり)家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」、第2回目。
いかに、神様に摂理される、
神の働く私になるか、というお話ですが、
神が働きそうにない例が、たくさん出てきます。
☆
「私の思いと蕩減(とうげん)」ということでお話していきます。
まずはですね、これ(パワーポイントの右の男性の絵)は、
親の言うことを聞かない息子のイメージなんですね。
でもこれをご主人にしてもいいし
伝道対象者にしてもいいし、自分の妻にしてもいいですよ。
で、息子を復帰するというとき、伝道しようとする時に
私の中に思いが湧いてくる。
例えばみなさん、自分の子女(息子、娘)を伝道するにしてですよ、
その名前を思い浮かべた時に、
どういう思いが来るかっていうことですね。
この対象者のイメージが、心に湧いてくるわけですよ。
そしてそのイメージは人によって違うわけですね。
☆
例えば、夫の場合を例に挙げると
「うちの主人は、調子のいい時はこうなんですけど
プライドを傷つけられたら、子どものように怒るんです」
と言ったとしますよね。
例えば、その奥さんが違う奥さんだったら
(夫について)同じ事は言わないんですよ、
また別なこと言うわけですよ。
つまり、夫の性質を自分が言い当ててるつもりなんですが、
そうじゃなくて、それは私の見解なんですね。
私の「思い」なんですよ。
この思いがある以上、私は摂理されないんです。
なんで?
神様の思いと違うから。
神様が夫を見ている思い、皆さんの子女を見つめる思いと
私の思いは違います。
ほぼ100%違う。
☆
1 私の思い:『この子は愛しにくいし…』
なぜかというとね、私の思い、
(図の左一番下に)「この子を愛しにくい」(とあります)。
例えば、子女復帰、もう2世の時代が来た(と言われるし)、
よそ様の家庭は子女が祝福に入っている、
うちの子はまだ証してもいない、とかね。
「愛せよ、愛せよ」と言うんですけど、
「家庭の時代が来た」とは聞くんだけども、
しかし、愛しにくい。
で、人の証し(あかし)を聞く。
どこどこの子供さんが教会に来るようになった。
あれはもう、子供さんがね可愛いらしいから、
愛しやすかったんでしょう、と。
うちの子愛しにくいですから、という感じでですね、
証しを聞いても、悪い方、悪い方にとって、
うちは特別なんだということを
主張するのは、天才的なんですよね。
☆
2 私の思い:『この子は私に反発しているし…』
愛しにくい、あるいは、
この子は私に反発している。。。
証しで出てきたあの息子さんは、
親に反発がなかったから上手くいったんだ
みたいな、言い訳をまたするわけですね。
だから皆さん、証しを聞くというのは恐いもので、
逆効果になる場合もあります。
証しのポイントをつかめる人ならいいんですけどね、
証しのポイントをつかめない人は、
あの家庭はご主人が素直だったからできたんだ、
こういう風にして言い訳を作るんですね。
そうやって、マイナスになっていく場合があります。
蝶野知徳・精誠篇1
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
この、神様に摂理されない、「私の思い」には、
5つの例が紹介されていますが、
今日は2つめまでのお話でした。
自分の家族に対して、
神様が見つめる思いではなく、
自分の思いで家族を見つめる。。。
これだと、神様に摂理されない「私」になってしまいます。
すなわち、人と比較して、愛の減少感を感じ、
神様が働きたくても働くことができないんですね。
さらには、「うちの家族は、難しい・・」
と諦めてしまうこと、これも摂理されないと思います。
問題は、神様が摂理されるには、
家族を神様がどのように見ておられるか、
神様の心情に通じる「私」になるか、です。
蝶野部長のみ言に励まされますね。
まだまだ続きます。。。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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