2021年12月25日

やむを得ず信仰、ただ習慣的に礼拝に行っていませんか? *「神が死んだ」と言った神学教授 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「最後までカナンを目指すには」です。


摂理に参加したその信仰人物たちが、
初めはそういう立派な動機をもって出発したけれど、
途中で脱線した人も多いのです。

簡単にいえば、イスラエル民族がカナンの地を好んで
エジプトから出発したけれど、途中であんまり貧乏したり、
苦労するものだから、結局神の摂理とか、
神に呼び出され、神によって導かれていくんだ
というその関係よりも、自分たちの立場で行くんだ
というように方向が転回してしまうのです。

それで、価値観も崩れてしまったのです。


こういうように失敗した人たちを見れば、
方向転回をし、自分を中心として方向を決定したのです。

そのため、心霊管理が一番問題となるのです。

自分がみ言によって復活されているかということ、
本当にそういう心霊管理をすれば、
神様が存在し、生きておられることを実感するのです。

 
だから信仰を長くやった人で、最後に
「神様はいるのかな」と疑いをもつ人が多いのです。

だから神学校の教授をやりながら、
最後には神様が死んだという論文を発表して、
「死んだ神様」という話をするのです。

皆さん、聞いたことがありますか。
「神は死んだ」。これは、神を信じない人が言ったのではなく、
一生涯神がいると信仰した神学校の教授の立場での結論なのです。

これは何を意味するかというと、
本当は信仰者が、信仰している人が、
神が死んだつもりで信仰しているということです。


イスラエル民族がヤハウェの神様がいると言ったけれども、
ヤハウェの神様がいないという結論になってしまったのです。
それでは、再びメシヤが来ても、メシヤの怨讐になってしまうのです。

ほとんどの牧師は、神がいない生活をしているのです。
その人は、自分の学問でもって、知識でもって人を教える、
職人になってしまっているのです。

生きた神と共に暮らしながら、生きた神を教えなければならないのに、
実際は、そうでない人が、牧師の中にたくさんいるのです。

名前は牧師ですが、神を紹介する人ではないのです。
そういう人が、世間にはあまりにも多いのです。

 
私たちの兄弟の中にも、「統一原理」を聞いて入教しているけれども、
生きた神と共に暮らせずに、ただ仕事に追われて、
職人、または仕事のための人間になっている人もいるのです。

相当いる。
相当いる! 
皆さん、それは経験するはずです。

例えば、「礼拝に参加しよう」と言っても、
「きょうは日曜日だから休みたいのに……、やむを得ないなあ」と。
やむを得ずに教会に行っている人がいるのです。

心霊を根拠として、心霊の原動力を中心とした生活ではなく、
宗教儀式、習慣となっています。

初めは神と因縁があったけれども、年が流れ、
一年、二年、三年、七年になると、
やむを得ずに宗教儀式に従う。

やむを得ずに主管されてしまう。
そういう立場へと脱線するのです。

6.心霊の安定した者になるために
「最後までカナンを目指すには」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)



今回は、ちょっと厳しいみ言でありました。。。
教会に通っていても、形だけの信仰であってはいけない、
もちろんおっしゃる通りだと思います。

ただ、「私は神様・父母様を信じ、侍っている。
だから教会に行く必要がない」
それもどうかな、とも思います。

摂理は進展しています。
真の父母様のみ言も今の時に、
必要なみ言を語ってくださいます。

また、目の前の牧会者に侍ることも、
その先にある真の父母様に侍ることにもなると思います。

組織信仰では決して良くないとは思いますが、
兄弟姉妹、家族、という観点をもって、
神様、真の父母様を中心とした家族づくりのために、
教会に集う、という観点で、
これからも信仰生活を送っていきたいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:25 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月24日

入院中の無神論の義父が祝福をOKしたのは・・・?! 《北谷先生*死んだらわかるけど、それでは遅い》



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北谷先生の「死んだらわかるけど、それでは遅い」
今回は、『入院中の義父を祝福に導く』です。


一九九五年、三十六万双の祝福結婚式(八月二十五日)を
間近に控えた頃、私は、がんで入院していた
義父(妻の父)を見舞いに行きました。
母と兄も一緒に来てくれました。

私は義父の体調を見ながら、祝福の話を切り出しました。
義父は三万双祝福式のときのマスコミ報道の
影響を受けていましたから、
なかなか「うん」と言いませんでした。

当時、 祝福結婚式について、
とても批判的で一方的な報道がなされていました。


私は義父に、「私たちが家庭連合に入る前と後では、
どちらが良くなりましたか?」と聞きました。

私たち夫婦は、祝福を証しするために
変わろうと努力していたので、
以前よりは良くなっているという
自負がありましたから、自信を持って尋ねたのです。

案の定、義父はグッと言葉に詰まりました。

しかし、消極的な姿勢は崩さず、
「じゃあ、 退院してからにしよう」と言いました。

私は、義父が私たちのことを「以前よりも
良くなった」と感じてくれていたことに力を得て、
「退院してからでは遅いです。
今からどうですか?」
と祝福を受けることを勧めました。


そばにいた母や兄も、亡くなった父が初盆に霊界から出てきて、
「死んだらわかるけど、それでは遅い」
と言ったことを義父に伝えて、後押ししてくれました。

義父は無宗教で霊界を信じない人でしたが、
義理人情に厚い人でした。
それで、母や兄がいる手前、むげにすることもできず、
「分かった」と承諾してくれたのです。

私はすぐさま病室で義父の写真を撮りました。
付き添っていた義母には、前もって祝福の話をして
納得してもらっていたので、義母はその写真を持って、
三十六万双祝福結婚式に参加するために
韓国に行ったのです。

光言社刊 北谷真雄 / 著
「死んだらわかるけど、それでは遅い」より
5 祝福は天国への切符
入院中の義父を祝福に導く


祝福の意義と価値というものは、
み言をある程度学んで、
一通り理解しないとわからないものです。

しかし、今は、結論が『祝福結婚』というような時です。
家庭連合であることを伝え、
夫婦が貞操を守り、離婚はしない、真の家庭を築く、
そのようなことを認識していただければ、
誰でも祝福を受けることができるのです。

先日、地元の名士の方に祝福を受けていただきました。
ご本人とは数年のお付き合いですが、
奥様とは一度しかお会いしていません。
なので、教会のことは知っておられますが、
み言は一切学んでいないし、
教会に来たこともありません。

しかし、ご主人が誘ってくださり、
教会に来てくださいました。
最初は固い表情でしたが、
教会長のポイント講義を受け、
そのあと、式典に臨まれました。

最終的には和やかな表情になられ、
その後の懇親会でも地元の話題に花が咲きました。

やはり、み言を学んでいただくことも重要ですが、
それとともに、信頼関係を築くことも大事だと思いました。

ちなみに、奥様は、
「夫が、『ただ座っていればいいから』そう言われてきました」
と言っておられたそうです。
ご夫婦の信頼関係も重要ですね。


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posted by ten1ko2 at 09:35 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月23日

(証し)「今日から僕が味方です」家族でボッチ信仰者だった父に 《方相逸大陸会長》



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先日、方相逸大陸会長が語られた証しを紹介しました。
今回は、二人目の証しになります。


独り信仰を貫く父の姿を見て
父の味方になろうと決意した二世

もう一つ、二十一日修練会の証しを紹介します。

この家庭は、六人の兄弟姉妹がいます。

上から三番目に当たる息子さんが今年三月に
二十一日修練会に参加したので(すが)
彼が修練会に参加する前は、
お父さんだけが教会に熱心に通っていて、
お母さんと子供六人は事実上、教会とは距離を置いていました。

そのような中で彼が二十一日修錬会に
参加したきっかけは、実に不思議なことでした。


昨年、いちばん上のお姉さんが一般の男性を家に連れてきて、
「彼と結婚をしたい」と家族に紹介したとき、
お父さんだけが強く反対したのです。

このとき、お父さんは、子供たちに
祝福二世の価値を訴え、説明しました。
ところが、お父さん以外は全員がお姉さんに同調したのです。

それを見て、彼は、「お父さんがかわいそうだ。
なぜ、 こんなに家族の中で孤立してまで信仰を貫くのだろう。
自分くらいはお父さんの味方になってあげたい」
と思ったというのです。


彼は、二十一日修練会で初めて「原理」を聴くような立場でしたが、
修錬会では一つ一つに精誠を尽くしました。

そして、修錬会を終え、
「ようやくお父さんの気持ちが分かるようになった。
今後はお父さんの味方になり、
お母さんと兄弟たちを全員、復帰する」と言って、
帰っていったのです。

家に帰って彼は、その決意をお父さんに伝え、
「教会の寮に入りたい」と話したそうです。
お父さんはとても喜びました。


お父さんは、彼が二十一日修練会に出て精誠を尽くしているときが
チャンスだと思い、何とか長女と向き合いました。

そして、長女は家に連れてきた男性と別れる決意をし、
教会で「原理」を勉強し始め、
祝福に向けて準備を始めていたのです。

お父さんは、後に
「お母さんと二人のお姉ちゃんは自分が何とかするから、
下の妹二人と弟一人は、おまえが一緒に導いてくれ」
と話しました。

彼は決意し、四月上旬に妹二人と弟一人に
それぞれ働きかけました。
そのうち二人が話に相対してくれ、一緒に
教会に行くことができ、教会につながり始めています。

お母さんはもともとはみ言が分かっていますから、
息子から言われる次の日曜日から教会に行くようになりました。


み言は、このように偉大なものです。

私たちが友達や親戚とつきあって、何十年間、
いくら自分なりに話をしても通じません。

しかし、一週間でも修練会に参加して
真の父母様のみ言を学んだ人は、すぐ私たちに
「ありがとうございます」と頭を下げるのです。

神様のみ言、メシヤのみ言が人を変えるのです。



こういうのを「一点突破、全面展開」というのでしょうか。。
息子さん(長男)が、み言に相対したのをきっかけに、
お母さんとほかの兄妹たちもみんな変わっていきました。

やっぱり、一人一人の心には、
「本心」があるのだと思います。

その本心にみ言が響く「時」があるのでしょう。
だから、ただそのための精誠条件が必要なのです。
それが、父母の精誠であり、み言であるのだと思わされます。。。





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